最近は、サブウェイのサンドイッチもあきてきたので 笑
料理をするようにしています。
自分だけのためにつくる料理は、なかなか気合が入りませんが
理科の授業のために色々と調べ物をするため、その知識が料理に結びつき料理が大変おもしろくなってきました。
どうして、片栗粉を入れると、液体がドロドロの状態になるのか。
このとき、分子レベルで一体何がおきているのか。
そんなことを考えながら料理をすると、また違った角度で料理の世界を見ることができます。
こんな分子の話ばかりしていると、友達が減ってくるので、皆様は注意してください 笑
さて、料理というのは、順番が命です。
マーボー豆腐を作るときに、最初からフライパンに片栗粉と豆腐を入れていては、どんな味になるのか検討もつきません(ちょっとやってみようかと、今、思いましたが 笑)
この順番を間違えると、素材を台無しにし、味まで変わってきてしまいます。
教育も同じです。
この順番を間違えると、生徒が本来持っていた良い部分が壊れ、最悪の結果を招きます。
母乳しか飲めない赤ちゃんに最高級のビーフステーキを与えても、得がないように
ハーバード大学の教授が、足し算がやっとの小学一年生に積分の話をしても、得がないように
どんなに優秀なお子様でも、与えられるものがその子に適していなければ意味がありません。
そして、こちらで良く見られるのが、家族一丸となり、家庭教師もまきこみ、子供の宿題を一所懸命に終わらせようとすることです。
もちろん、そのような宿題を出す学校も攻められるべきなのですが・・・
決して「終わらすための宿題」ではありません。
宿題に取り組む過程を通して、お子様が、何かをつかまなければ、その宿題の意味がありません。
私の先輩が良くこう指導してくれました。
シャワーを浴びる前と後、これは絶対に体がすっきりしていないと意味がない。
シャワー室に入っただけで満足してはいけない。
体も頭も洗わずに、シャワーも浴びずに出てくれば、意味がない。
人間は、その変化が得られるから、シャワー室に入るのである。
それは、教育とて同じことだ、と。
生徒が塾に来てくれた。彼らが来たときと、帰るとき、彼らに変化がなければ、来る意味がない、と。
にもかかわらず、学校に行っても、何の変化もない。
宿題を終えても何の変化もない。
宿題をやっているのは、大半が本人ではないため、それは当たり前といえば当たり前のことなのです。
それでは、子供は学校に行く気が失せ、宿題に取り組む姿勢も変わってくることでしょう。
プロセスを通して、自分の中での変化が見えてこない限り、そのプロセスを行うことを子供は嫌がるようになるでしょう。
では、どうしなければいけないのか。
直接学校に問い合わせ、宿題のレベルを下げてもらう、より簡単な教材にしてもらうなど、こちらから積極的に交渉しなければいけません。
見栄などを考えても意味がありません。
こちらにきて、数ヶ月であれば、読書感想などの教材なら、小学5年生でも、小学1年生以下のものにしてもらう、これくらいのことをしてもらわない限り、その宿題に意味はないのです。
こんな言い方は誤解を与えかねますが、アメリカの学校の先生は、基本的にあまり気を使ってくれません。
(もちろん、例外は何人もいます。アメリカの人を馬鹿にしているわけでもありませんので、ご理解ください)
先生に何も意見をしなければ、この子は何とかやっているのでしょう、との結論に彼らは陥ります。
こちらでは、積極的に意見を言わなければいけません。
もちろん、どのように交渉すればいいのか、どんな言い方をすればいいのか、など疑問がありましたら、メールでも電話でも相談してもらえればと思います。
とにかく、お子様に、今最適な教材は何なのか。
これが、教育において、大事な点です。
それを無視し、順番を誤れば、お子様は一生、シャワーを浴びた時の快適さを味わうことなく、シャワー室を出入りすることになり、やがてはシャワー室に入ることさえ拒否することになってしまいます。
逆を言えば、少しでもシャワーを浴びて快適さを味わえば、その意味が見出せるのです。
そのためにも、家族一丸となって宿題を終わらせるのではなく、家族一丸となり、学校の先生と交渉してください。
それが、長いスパンで見たときに、お子様のためにもなるのです。