「前菜はピノキオ風盛り合わせで」
「ガルダのシャルドネ…奮発しようか」
「え…」
百合子は値段を見た。3,700円。
「いいの?出張旅費ってそんなにないでしょうに」
「いいよ。3回分精算払いで貰った。じゃあ、それで。食後にコーヒーを2つ。」
「かしこまりました」

フロアに他の店員は見当たらない。平日の夜だからだろうか。女性は長身で、白いシャツに黒い膝丈のスカート、黒いエプロンをつけていた。シンプルな服装に真珠のピアスと一粒真珠のペンダント。知的な風貌に似合っていた。

「それで…春夫さんの家、どうだった?」
龍彦が百合子の眼を見ながら聞いた。百合子はレモンの香りのする水のコップを見つめながら、
「うん…」と、言いよどんだ。
「それがね、とても広くて綺麗で。ステンレスの飾り棚があった。貴方がスージーに買ってあげたいって言っていたようなやつ。ハンモック付きのキャットタワーも買ってある。スーの居た猫カフェにあったのと同じメーカーのだって」
「ええ?何、スージーを迎える気満々じゃない?」
龍彦は眉間に皺を寄せてコップを掴んで一気に飲み干した。

「たまたまだけど、権田さんも来ていて…新緑賞の受賞も確実みたいなこと言っていた」
「それで?」
「スーを引き取りたいけど、前の住居じゃあ無理だから預かって、ってことだったでしょう。見た感じ、スーを返してもいいのかな、って思った…」

「俺、スーを渡さないよ!」

広い店内に響くような大声だった。彼らの他にはカップルが1組と若い女性の2人組。他の客が振り返るような尖った声に百合子もひるんだ。

「大きな声、出さないで。」
「…悪い。そんなの勝手だよ。人間の都合であっちいったりこっちいったりって。もうスーは俺たちの家族なんだ。今更、返す気にはなれないよ」
「でも、あの家と買ったものを見たら、そんな事、言えないわ」
「お前から言いにくいようだったら、俺が言ってやる」

龍彦に初めて、「お前」と呼ばれて、百合子は驚いた。
好きな男から「お前」と呼ばれたら、私はいやだな、ううん、私はそういうの、なんかいいな、って思う…高校生の頃、同級生と他愛も無い話題で盛り上がったことがある。しかし、今夫が口にした「お前」は、妻に対する愛情の有無とはあまり関係ないような気がした。

「お待たせいたしました」
給仕の女性がワインと前菜を持ってきたタイミングは最悪だった。
「…すみません、お騒がせして」
百合子は女性の顔を見上げながら言った。
「いえ。…ブルスケッタはサービスです」
籐の籠にサイコロ状のトマトが乗せて小さく切られたフランスパンが4枚。
「あら、すみません…」
パンも嬉しかったが、厨房まで聞こえたであろう大声を聞かなかったふりをしてくれた女性の気遣いが百合子には何より有り難かった。

いつもの龍彦なら、ワイングラスを思わせぶりに持ってゆっくり味わうのであるが、一気にグラスを開けた。
――あ、そんな飲み方して…

前菜は魚介のフリットなど盛りだくさんで、それだけで腹がくちくなるような内容だったが、百合子には何を口に入れても味気ない。

――いいお店なんだろうけど、美味しいのだろうけど。また改めて来たほうがいい、今日の龍彦だと…。お店にも失礼だし。

「あのさ、春夫さんに電話してくれないか?」
「え、どうして?」
「今日、食べ終わったら寄らせてもらえないかって。俺、そのマンション見たいよ」
「そんな。権田さんも来ているのに」
「まさか、泊まらないだろう?大手出版社なんだからホテルに行くさ」
「でも…」
「いいから。携帯、貸して」

百合子はおずおずと携帯を差し出した。単に「サ行」で澁澤春夫、と登録してあるだけだ。見られて疚しいことなど、ない。
「もしもし…あ、こんばんは、ご無沙汰しています、佐藤です。さっきウチのがお邪魔したようで」

――ウチの、と現在の夫に言われて元夫はどんな気持ちがするのだろう。百合子は龍彦の唇が「ウチの」と言った時の動きに注視した。特に、無感情に見えただけだが。
「今外食しているのですけど、これから40分くらい後かな、寄らせてもらってもいいでしょうか?」
――断って、頼むから。
「ああ、すみません、有難うございます、じゃあ後ほど」
「ちょっと、いいって言われたの?」
「うん、2つ返事だったよ。いいさ、ピザ持っていこうよ、そうだ、ここの自家製ワインも買えるかな」
「もう…信じられない、おかしいよ、そんなの」
「何が?あっちは文筆業で夜が仕事だろう、直ぐに帰ればいいさ。お宅拝見さえ終われば」

あたふたと食事を終えてレジに向かう。
「有難うございました。またおいで下さい」
「ご馳走様でした…あの、タクシー呼んでもらっていいですか」
2人は店の外に出た。5分も経たないうちにタクシーが来た。

車内で百合子は声を顰めて、
「なんか何を食べても味がしなかったわ、貴方が怒るから」
「怒っていないよ、店の人には悪かったけど。」

――そもそも、元夫の家に現在の夫が元妻と訪ねていく事の非常識さにどうして気がつかないのよ、と言おうとしてさすがに運転手の前では言えない、と言葉を呑み込んだ。
「…もうさ、友人としてだね、お宅拝見ってそれだけさ。気にする事ないよ」
――貴方は良くても…

「『蓼食う虫』って読んだか、谷崎の」
「…うん。佐藤春夫に細君譲渡、でしょう?」
「あの小説読んだ感じ、佐藤も谷崎も妻も息子も割と普通にしてるし、まあ心中いろいろあるんだろうけど」
「そりゃあ……ちょっと、こんなところでする話じゃないよ」
「うん」

龍彦は携帯をいじり始めた。
ピロピロピロ…龍彦からのメール音。百合子は液晶画面を覗き込んだ。
――犬飼っていたよな、あの小説の中で。佐藤春夫らしき男と谷崎の息子と犬と、仲良かったよな
――それと私達とは違うわよ。
――違うけど、まあ普通にしてりゃあいいよ。あの小説みたいに。
――勝手な事言ってるわ。

「あ、運転手さん、そこのマンションの前で停めて下さい」
春夫のマンションを見上げた龍彦は
「うちよりも新しくてエントランスも広そうだ…」
百合子はエントランスのドア前にある部屋番号のキーを押した。

「はい」
インターフォンから春夫の声がした。
「こんばんは。ゴメンね、急に」
「どうぞ、オートロック解除するから」
2人はエレベーターに乗り込む。春夫の部屋の前に来て、百合子がブザーを押す。ドアが開く。

「こんばんは」
「お邪魔します」
「春夫さん、お久しぶり、無理言ってすみません」
「いやいや。編集の人もさっきホテルに帰ったから」
「あの、これ、良かったら」
百合子はピザの箱とボトルを差し出した。
「有難う。リビングへどうぞ」
「広いですね…」

龍彦はリビングダイニングを見回す。
「どうぞ、座って。お持たせ、早速頂こうか」
春夫は作りつけの食器棚から大皿を出そうとするのを百合子がさえぎって、
「あ、箱のままでいいから」
「そう?」
小皿を3枚とワイングラスを出そうとしているので、龍彦がグラスを取り上げてリビングのテーブルに置いた。

春夫は箱の店名を見て、
「この店、この前行ったよ。結構旨かっただろ」
「ええ、まあまあね」
「猫もいたし。シャルトリューの雄、会った?」
「え、気がつきませんでした。どこにいたんですか」
「いつも居るわけじゃないらしい。本当は猫カフェにしたいそうだけど、法改正で動物販売や展示業は8時までの営業になっただろ。オーナーは料理をちゃんと出せる店にしたいし、奥さんは動物取扱業の資格も持っているんだけどね」
「へええ。なんか取材したみたいに詳しく聞いたのね」

――奥さん、というのは給仕をしていた女性だろうか。
「奥さんが俺の事に気がついてね。いつか猫カフェになったら取材に来てくださいって」
「ああ、猫雑誌の連載ですね。読んでますよ…」
龍彦はリビングをうろうろして、座ろうとしない。特にパイプ状の飾り本棚とキャットタワーや猫フードの段ボールから目を離さない。
「龍彦君、座って。この果実酒、結構イケるよ」

「春夫さん、今日来たのは…」
龍彦が座るなり、切り出そうとした。
「龍ちゃん、ちょっと」
「あの、こんなにスージーの為に色々買い揃えて下さって恐縮なんですけど…」
「ああ、できるだけの事はしてやりたいし、やれるようになったから」

「あの。俺、スーをお返しできません」

百合子は龍彦の隣で緊張する。彼女の頭の中で翻訳機械が勝手に作動する。
――オレ、ユリコヲオカエシデキマセン
「え、どうして。君はそんなに猫が好きだった?」
――キミハソンナニユリコガスキダッタ?
「猫を飼うのは初めてでした。今ではスーが可愛くて、もう大切な家族の一員ですから」
――イマデハユリコガカワイクテ、モウタイセツナカゾクノイチインデスカラ
「そんな…預かってもらって感謝しています、ようやく引き取れる状況になったから。元々僕の猫なんだよ」
――モトモトボクノユリコナンダヨ

「2年やそこらで3軒、いや猫カフェを入れれば4軒も、家が変わるのは可哀想ですよ。やっとウチに慣れたのに」
「可哀想…?」
春夫のほうが冷静で大人の対応で、龍彦の言うのは青臭い。しかし、「可哀想」の一言で、穏やかに話していた春夫の表情が変わった。百合子はひどい口喧嘩になる前に話を打ち切らなくては、と思う。

「龍ちゃん…お暇しよう、スージーが待ってるよ」
それまで黙っていた百合子に不意を衝かれて、龍彦は隣に座っている妻のほうをまじまじと見た。

「あ…そうだな、スーが待っている」
春夫は目を見開いた。スージーが待ってる、が効いたのか。
「ごめん、春夫。お騒がせして。よく話し合うから、また改めて」
「…あ、ああ。そうか」
「すいません、春夫さん、言い過ぎました」
「いや…そんなにスージーをって、僕も驚いた」
「龍彦、先に出てくれる?すぐ行くから」
「ああ。それじゃあ春夫さん、本当に失礼しました、お邪魔しました。おやすみさい」
「うん。おやすみなさい」

バタン。龍彦が出て行った。

「春夫。私がよく言って聞かせる。スーは必ず返すから」
「え。でも、龍彦君があの調子じゃあ。短期間に何度も家が変わるのはよくない、っていうのも一理あるかな、ってさっき思った」
「大岡裁きみたいね、貴方の言う事。両方から手を引っ張って相手を思うほうが放すの?」
「スージーが待ってる、か…」

「春夫」
「なに?」
「作家に猫は必要なの」
「え」
「スーは貴方のラィテングデスクの傾きが好きなの。」
「そう?」
「私や龍彦の机の上には原稿用紙もモンブランも、無いの。スーは貴方の机の上がいいの」
「そうか…」
――私は貴方のペンにはなれなかったけど…

「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ。スージーにも言って」
「はい。春夫パパからってね」

部屋を出たが、龍彦はいない。エレベーターで下る。
エントランスに出ると、龍彦がいた。
「春夫さんに悪かったね」
「うん…タクシーつかまるかな」
2人は鋪道に出た。風が冷たい。車の数はまばら。空車のタクシーが来た。龍彦が手を挙げる。
「松木町まで」

龍彦は携帯画面を見つめて、何も言わない。百合子は外の景色を眺めながら考え事をする。

築30年の木造平屋建て。庭にはつつじと紫陽花ぐらいしか植えられてなかったが、百合子が種を買ってきてミントやジャスミンを丹精した。パンジーなどは店で購入した時に入れられていた小さなポットから植え替えた。

猫にリードをつけて、庭を散策させた。ベージュピンクの塊はハーブの香りをかいだ。
くんくん、くんくん。
ミントの葉に身体をこすりつける。
ひらひら、ひらひら。
紋白蝶が旋回する。猫が掴もうとする。
右へ、左へ、上へ、下へ。
スージーの優雅なダンスに春夫は目を細める。
なかなか捕まらない。猫はきまりが悪いのか、取り繕うように化粧を始めた。
ぺろぺろ、ぺろぺろ。
頭を右肩越しに見返り美人は器用に背中を舐める。
てんとう虫を猫が仕留める。半殺しのまま、玩具にしてもてあそぶ。
――あああ。女王様は残酷だね。

――春夫、お風呂場にいるの?
――静かに。スーが。
猫は風呂の蓋の上で眠っている。
――あら。お湯を落とさないと。落ちたら危ないし。
――いいよ、スーが起きるまで俺が見ておく。
湯を張ったままの風呂の蓋の上にはタオルが敷かれるようになった。春夫はノートを持ち込んで、小説の下書きをそこですることもあった。
古い家を、小さな庭を、風呂の蓋を猫はどれだけ愛しただろう!

――嫌いで別れたわけじゃなかった。
売れない作家と公務員の妻。
妻の生活力に頼る、春夫がその状況に耐えられなくなった。

「お客さん。大峰町もうすぐですけど、どの辺?」
「ああ、リビングホームまで」
「あそこね、私も良く行きますよ、猫のゴハン買いに」
反対車線にガソリンスタンドが見える。百合子のめざすホームセンターが近い。
百合子はメーターを見た。800円である。千円札を運転手に差し出して、
「おつり、いいです。猫缶1個分、私からお宅の猫ちゃんに」
「ああ、すみませんねえ。うちの子にお礼言っときますよ、お客さんに貰ったよ、って。へへ、どうも」
百合子は軽く微笑んでタクシーを降りた。
ベージュ系のハイヒールがホームセンターの階段を上がる。
フロアの中ほどにペットのコーナーがある。「チャオ」という猫オヤツを10本、籠に入れる。他にドライフード2.5キロの袋とウエットフードの缶詰3個セットを5つ。
ティッシュボックスとシャンプーの詰め替えの袋も入れてレジに向かう。
――車じゃないのに、買いすぎた。これ全部ぶら下げて帰るの?…さっきの運転手さんに待ってもらえば良かったかな。
百合子は大きなレジ袋を2つとティッシュを抱えてよたよた階段を降りる。これからマンションまで歩くのか、5分程度だが大荷物を抱えて、しかもハイヒールではきつい。
初夏というにはまだ早いが桜はとうに終わって、ツツジがあちこちで咲いている。帰り道で見かける住宅街に藤棚のある家があり、その前を通るのを百合子は楽しみにしている。その数軒先には小さなビニールハウスを所持した家がある。敷地内でバラを植えてあり、これも百合子の目を愉しませる。
ようやくマンションが見えた。手に薄いレジ袋が食い込んでいる。
マンションのエントランスまで入ってエレベーターのドア前まで着いた。
自分の部屋の前までくると、鍵を取り出すために荷物を床に置いた。
ドアを開けるとベージュピンクのヌーディな身体が足元までそーっと、と近寄ってきた。
ぅんなーお、ぅなーん。
「スージー、ただいま」
玄関の前の細い廊下を真っ直ぐ行くと、10畳ほどのリビングダイニング。猫は女主人の前を歩き、明るいベージュで統一した空間に入って来た。
かさかさかさ。レジ袋の音にスージーは反応する。ぅんなーお、あんあんあん。
「はいはい。分かるんだね、買ってきたものが。ちょっと待って」
「チャオ」を袋から取り出す。スージーの青い眼が輝く。パッケージを開けようとするそばから、ほっそりとした体が足元に絡みつく。
かつおステッィクを取り出し、小さくちぎって猫の口元にひらひらさせる。スージーは素早く口中にかつおを入れた。
テレビの動物番組で「うまい、うまい…」だの「まぐろーー」だのとしゃべる猫を見た事があるが、スージーにはそんな芸当はない。
猫用の皿にかつおを細かく千切って入れてやると、皿の前まで薄いこげ茶の尻尾をふりながら歩いてきた。

カウンターキッチンのシンク上の棚の1つを開ける。右端に猫用のかつお節と粉末チーズがある。
百合子は皿の上にその2つのトッピングをかけてやった。
「おいしい?」
猫は皿に小さな頭を突っ込んで静かに食べている。
――龍彦に何て言おう?春夫のマンションが想像以上に立派で、いやそれ以上に、文学賞の受賞が現実味を帯びていて、仕事も増えている、猫を引き取る条件は揃っていると。
かちゃん…
ドアが開く音と同時に、スージーが皿から顔をあげ、玄関に滑るように走っていく。
「ただいま、スージー。」
猫が龍彦の足元に絡まるように身をくねらせ、「2人」はリビングに這入って来た。
「ただいま」
「お帰りなさい。早かったね」
「あれ、ゴハン前におやつあげたのか?ゴハンが入らないじゃないの」
「うん…何となく、ね。あ、人間のゴハンの支度も全然、なんだけど」
「いいよ、どっか外食しない?」
「あら。臨時収入でも入った?」
「出張旅費がね。おごるよ」
「へえ。どこに行こうか?」
「あの猫カフェ、久しぶりに行ってみない?」
「ええ?…春夫の新居に行ってきたのよ。その話したいから、もっと落ち着く所がいいな」
「え?そうなの。それじゃさ、新しく出来たイタリアン、あの店にしよう」
「待って。着替えるから」

百合子は寝室に入ってクローゼットを開けた。開店したばかりの、しかも初めて行くイタリアンならば少し気負ったお洒落が必要だ。ベージュのニットアンサンブルに手を伸ばす。
いや、夜のことだからもっと派手目な物でもいい。ペールグリーンのプリーツスカートにリボンタイがついたブラウス、ベージュのレザージャケット。
ジャケット以外は今年の春物だ。
化粧直しと着替えを終えてリビングに戻ると、龍彦もセーターに着替え、ジャケットをカジュアルなものに替えていた。気に入りの服なのに構わず、スージーを抱きかかえてソファに座っている。
「お。おニュー?似合うよ、その色」
「ふふ。外少し寒かったけど…飲むでしょう?タクシー呼ぶ?」
「そうしよう」

タクシーは若林神社の横道を通り過ぎる。神社の境内には藤棚があり、樹齢百年を超える大藤など珍しい品種もあるので4月下旬から2週間ほど見ごろを迎える。
「こんな所にイタリアンって。面白いね」
「古民家を改造したんだって…あ、そこです、運転手さん」
2人はタクシーを降りて平屋建ての木造建築の前に立った。
「リストランテ・ピノッキオ…ふーん」
龍彦がドアを開け、百合子が先に入る。
「いらっしゃいませ」
40代くらいの色白の女性が「空いていますから、お好きな席へどうぞ」と言う。
2人は窓際の席に腰をおろした。
外観は古民家風だが、内装は洋風である。紅殻色の壁に色ガラスがはめ込んであり、照明は控え目。窓の面積は大きめに取られており、ランチ時は明るい光が差し込むようになっている。高い天井と太い梁。店内は奥行きがある。
メニューを見ながら百合子が「ご飯ものとパスタとピザと取って、分ける?」
「そんなに食べられるか?ピザは止めておこうよ。いや、持ち帰りが出来るか聞いてみようか?」
「そうね。ワインは…?」
さきほどの女性が注文を聞きに来た。
「お決まりでしょうか?」
「ゴルゴンゾーラのリゾットと菜の花とアサリのペペロンチーノ。ピザ・マリガリータは持ち帰りできます?」
「できますよ。」

 
 


「おい、腹が減っているんじゃないのか」
「…あら、帰っていたの」

夫の龍彦が立っていた。
グレーのパーカーにベージュの毛がくっついている。
やや内股の長い足に履きこんだインディゴブルーのジーンズ。
スージーは百合子の黒いスパッツを履いた足元から向きを変えて、青い長い爪とぎに絡まり始めた。
「ただいまぁ、スージー。いたた…おニャかすきましたかー。待っていなさい、
今かつおスティックあげるから」
龍彦は居間件ダイニングキッチンのカウンター下にある引き出しの一番上から「チャオ」というメーカーの細長い袋を取り出した。
白い猫の写真がパッケージに付いている。
ん、なーお、ぅなーお…
引き出しが開けられる音に反応してスージーが身を乗り出した。
袋を破る前からピンクベージュが龍彦の右腕に絡みついた。

「スージーはこれが大好きだもんなー…おい、買い置きがもう無いぞ。
リビングホームの特売は昨日で終わっていただろ?」
リビングホームというのは隣町のホームセンターである。
この夫婦は猫の食事はその店で買い揃えることが多い。

「知らないわよ。貴方がチラシ見ていたのなら、自分で買ってくればいいじゃないの」
百合子は夫の夕飯の支度が遅れているのを咎められるのならまだしも、猫のおやつで指図されたことに苛立った。

「あのね、春夫から今日メールが来ていたの」
「春夫さんから?何で、今頃?」
い、ま、ご、ろ?今更、ではないのか。
百合子は呆気にとられた。
夫がまるで春夫のことを龍彦の大学の先輩からの便りが届いたかのような反応を見せたからだ。

「春夫がスージーを近いうちに引き取りたいって言ってる…」
百合子は夫に春夫がメールに書いてきた近況をかいつまんで話した。
「何だよ、それ。マジかよ。春夫さんはスージーを置いていったんだろう?今更、何言ってるの」
今更、というフレーズがこの時龍彦の口から出たことに百合子は目を見開いて夫の薄い唇を凝視した。

「どうせあの人のことだから、文学賞なんて言っても現実味が無いのだろうけどね。今までだって候補にすら上ったことは無いのだから」
「でもさ、春夫さんの書くもの、俺結構好きだぜ。
猫の話いっぱい書いてるだろ。デビュー作の『湖畔の猫』って新人賞取ったじゃないか。他にも…」
龍彦が春夫の作品を読んでいたことも百合子は知らなかったが、次から次へと猫を題材にした作品を羅列していくことにも驚いた。

「春夫さんさ、才能あるよ。もっと売れていいと思うな。その文学賞の話、結構手応えあるんじゃないのか。彼、嘘は言わないだろ」
「作家で嘘つきじゃない人なんかいるもんですか!」
百合子は声を荒げて夫を睨みつけた。
「何怒っているんだよ…」

百合子は我にかえって冷蔵庫のドアを開けながら、手早く作れそうな献立の吟味を始めた。
春夫のメールの前で思ったほど時間をくってしまい、
手の込んだ物を作る気がしない。冷凍庫にトマトソースがあった。
あれとハンバーグの種を解凍して、サラダを添える。
パスタも茹でてバターソースと和える。
フランスパンがあったからガーリックバターで軽くトーストしてトマトソースの残りでブルスケッタ。
キャベツや人参の千切りを入れた簡単なスープ。頂き物のワインがあったっけ…。

「文学賞本当にノミネートされるなら、めでたいことには違いないわ。
そうなると、春夫はスージー返して欲しいって言ってるけど、依存ないよね?」
「えー。スーちゃん、スーちゃんはもう前のパパのことなんか、忘れたよねぇ…。龍パパのほうが好きだよねぇ…」
猫は龍彦にあごの下を撫でられて、大きな音をさせてゴロゴロ言い出した。

猫はさ、たくさん会ってるし何匹か飼ったことあるけど、
スージーみたいな子には会ったことないね。ゴロゴロ喉をならす子はいるけど、外にもはっきり音が聞こえる子はなかなかいないよ…。
春夫が言っていたスージーの美点とやらの数々を、どうしてこんな時に思い出すのだろう。

「まあ春夫さんが実際にいい状況になるんだったらまた言ってくるだろうからさ、スージーのことはその時考えればいいさ」

百合子は猫をやり取りすることなど簡単にすませられる話だと思っていた。 夫の意外な反応に鼻じらみながら、解凍すべき食材を電子レンジに入れ、パスタを茹でるべくお湯を沸かしはじめた。

料理好きの彼女は軽い夫婦の諍いも食卓を整えることで気晴らしに変えることができる。
「ワインとグラス取ってくれる?」

春夫からのメールが届いて10日ほども経っただろうか。

百合子は図書館の事務室の中で時計を見て帰り支度を始めた。
大学の付属図書館の司書である彼女は月曜から金曜までは6時、隔週の土曜日は休みで勤務日は5時には帰れる。
他の司書も同じ時間に帰るので、その後は10時までアルバイトの学生たちが図書館の建物の鍵を管理することになる。

「お疲れ様、後お願いね」
金子という男子学生と川村という女子学生が今日の当番である。
「お疲れ様です」と金子が百合子と同僚を振り返ってカウンターから応える。
川村は書籍貸し出し希望の学生の応対をしていた。

百合子が階段を降りようとしたとき、背の高い男が階下で声をかけた。
「やあ。今、帰り?」
「あら…こんばんは」
春夫だった。
同僚たちは横目で2人を見ながら「お先にぃ…」足早に図書館の棟から足を踏み出した。

「ここで会うのは久しぶりだわね。まだ通っていたの」

単科大学に近い小規模の大学なのでキャンパスはそう大きくはない。
それでも市立の図書館よりは遅くまで開いているし、学生の試験期間以外は一般も利用できるので春夫は時々この図書館を利用していた。

「僕が来るのはここの学食で晩飯食ってその後だから、大体6時半くらいかなあ。君とは入れ違いみたいだし」

学生食堂は7時までの営業だから学生も多く利用するし、そうかといって一般人が入れないほど混雑しているわけでもない。

百合子は春夫が彼女を避けてその時間帯に図書館を利用しているのか、本当に夕食を取れる時間帯に合わせているのか判断をつきかねた。

「学食でコーヒーでもどう?ちょっとさ、話があるんだ」
今日に限っては元夫が百合子を待ち伏せしていたようなそぶりを見せることに彼女はそう悪い気がしなかった。

「いいわよ。あなたは食事していくの?コーヒーでお相伴するわよ」
「そうだな、ここのカツカレー結構旨いんだ。
昨日はうどん定食だったから今日はそれでいくか」

春夫は自販機の前で財布を取り出してコインを入れ、ブラックコーヒーのボタンを押した。
コーヒー缶2つのうち1つを百合子に渡しながら
「熱いから気をつけて」
「有難う」
2人は学食の4人座りのテーブルで学生が隣に座っていない所にコーヒー缶を置いた。
「食券買ってくるから」
春夫は食券売り場に行って何か一言告げて食券らしき小さな紙を受け取った。
百合子の席に戻ってきた春夫は
「今日残業無かったのか」
「うん。この頃は講演会とかイベント貸し出しも無いし、このところいつも定時で帰ってる…オーダーストップ6時半でしょ?カツ定食残っていた?」
「カツはあるけど味噌汁が無いって。カツ丼にしてもらった。あのオバサンまだ居たね」
春夫と顔馴染みの柳原という調理師の女性がサービスしてくれたらしい。

「…話っていうのは?」
わざわざ百合子の勤務終了を待っていたらしい春夫の前で、彼女はデパ
ートで購入したばかりのライダースジャケットを着てこなかったことを少し悔やんだ。
スゥエードの七部袖ジャケットに白い丸襟のカットソー。
こげ茶とベージュのストールを首に巻いてブーツカットのジーンズ。
足元は茶系のショートブーツ。
そう安っぽくはないがここの女子学生の服装と大差無い。
カシミアのセーターにコーデュロイパンツというシンプルだが垢抜けていて、ここの非常勤講師
たちよりも数段知的な風貌の春夫と自分は学生たちの目にどう映っているのだろうか。

「こんばんは、佐藤さんお疲れさまです。」
「こんばんは」
今日シフトで入っている2人とは別のバイト生安永が百合子に気がついて挨拶した。
安永は春夫のほうをちらっと見たが、すぐに前方にいた女子学生に追いついて自分たちのテーブルについた。

「カツ丼のお客さーん」調理師の柳原が春夫のほうを見て声をあげた。
「あ、俺だ。取ってくるから」
春夫の持ってきたトレイにはカツ丼にポテトサラダの小鉢と漬物が添えられていた。
「…随分あなたに親切ね」
「毎日ってわけじゃないけど良く来るからかな。お昼も来る事あるしな…
この前のメール、読んでくれたかな?」
「スージーを引き取るとか、文学賞のノミネートとかって」

「それ。本当に実現しそうなんだな。新緑賞にノミネートされた。来週雑誌が出るだろ。ここの図書館も雑誌が寄贈されているけど新緑もあるだろ。
受賞作となると、来月号掲載だけど」
「新緑賞…」
新緑賞というのは、芥川賞直木賞ほど権威はないのだが、創設されて20年、受賞者の中にはその後芥川賞受賞者も多く輩出している。

「良かったじゃない、おめでとう。凄いわ」
「サンキュ。月間新緑の権田さんいるだろ。君も会ったことあるけど。
あの人がこの頃俺のマネージメントみたいなことしてくれててさ、新緑系列の雑誌とか他誌にも連載とか増えそうなんだ」百合子は大柄で小太りな32,3歳の男を思い出した。そうやり手には見えないが、頭の回転は速いし押し出しも弱くは無さそうだ。

「へえ…面倒見がいいのね」
「大作家の傍に名編集者ありき、だろ。」
「大した自信ね」
「権田さんが『猫を食む』の第一稿を読んだ時からさ、澁澤さんこれはなんか今までのと違う、こいつはイケますよって熱くなっちゃってさ…」
「また猫の話なんだ」
「なんだぁ、読んでないのかよ」
「悪い。この頃本とか、別に貴方のものだけじゃないのよ、読んでなくてね…」
百合子は龍彦が春夫のノミネート作品も読んでいるのだろうかとちらっと思った。
「俺のハードカヴァーとか文庫って初版しか出ていないだろ、直ぐに絶版になったのもあるし。それが今度は権藤さんもえらくプッシュしてくれて始めて文庫の2刷目が出るんだ。講演会依頼とか、サイン会とか大学の文学講座とか、何か忙しくなりそうなんだ」
「へえぇ…それはまた。」
「まとまった金も入りそうだしさ…スージーと暮らせるマンション見つけたんだ。昨日、手付けも払ってきた」
「えぇー。気が早いのね…」

「俺がスージー連れて行くことにそっちは異存ないんだろう?」
「あ、それが…」
百合子は実は龍彦が思ったよりも猫に執着していて,
いざ譲渡という話になると揉めそうだ、という口を滑らしそうになって思い留まった。
何も今ここで直ぐにカードを切り出すことはない。

「ん?何かあるのか」
「ううん、旦那がね…」
百合子は旦那、の部分に力を込めて発音したのだが春夫がそれに気がつかないのに唇を噛んだ。
「旦那がね、貴方の作品結構読んでるんだって。面白いって」「へー。そいつはどうも、って伝えておいて。別に異存無いんだろうからさ、こっちも本格的に
忙しくなるのはもう少し先だろうし。
そっちの都合に合わせるには早いほうが
いいからさ、スージー引き渡す日とか、相談しておいてくれよ」

春夫は一切れ残ったカツを口に放り込み、白飯と卵を器用に箸で纏めながらどんぶりを綺麗に空にした。
百合子はすっかり温くなった缶コーヒーを薄いピンクの爪でつつきながら、
「うん…こっちから連絡する。引越しはいつなの?」
「引越しっていうか本ばかりだけどね。もう新しい所に少しずつ荷物運び入れてるんだ。今住んでいるところからバス停3つくらいしか離れていないし。
薬泉の公園あるだろ、あの近く」
「ああ、スージー貰った猫カフェがあるとこ」
「そうそう、スージーも懐かしいだろうし、あの店は猫を譲渡した里親なら猫シッターとか猫ホテルのサービスもしてくれるしな」
「…至れり尽くせりじゃない、猫には」

百合子は龍彦にどう話したものかと思ってそれから後の春夫の話には生返事ばかりしていた。幸い、調理師たちが皿の音を派手に立てて洗い出していたので、
「もう出て行かないとあのおばちゃんに悪いわよ、せっかくおまけしてくれたんだから」

百合子は大学近くのスーパーで買い物した袋をぶら下げてマンションに帰ってきた。
鍵を開けるとジャックはいないので、龍彦が先に帰宅して散歩に行ったらしい。

うなーん、あんあん。
ドアを開けるやいなや、ブルーグレーの寄り目が玄関先で百合子を見上げていた。
「ただいま…オヤツは貰っていないのかな?」
カウンターキッチンの台上にはチャオの袋が開封されて乗っていた。
「貰ってるじゃないの。足りなかった?」

うなーん、うなーん。
百合子はシステムキッチンの引き戸を開けて缶詰とドライフードを取り出した。
スージーが百合子の足元をぐるぐる廻っている。
有田焼の赤絵のサラダなどを入れる皿は春夫がスージー用に使っていたものを置いていったものだ。
猫に贅沢すぎる、と百合子は彼と暮らしていた頃非難したものだが春夫は聞かなかった。

ガタン。
マンションのドアが開けられる。
外からの風で少し足元が冷えた。

うなーん。あんあん。
ピンクベージュの塊が龍彦の足元に絡まりつく。
うなっうなっ。あんあん。
猫はこげ茶の尻尾を立ててぐるぐるこの家の主人の周りを廻り始めた。

「ただいま…スージー、いい子にしてた?」

妻よりも猫に帰宅の挨拶をする。芸能人でも最近、夫が猫ばかり可愛がると妻に三行半をつきつけられた男がいた。確か彼も、帰宅一番、猫に先に挨拶をしていたということだった。

いちいち目くじらをたてていたら、結婚生活などできない。

それよりも今日は龍彦に春夫の話をしなくてはならない。

「あのね、また春夫に会ったのだけど」
「へえ、それはまた?」

どうしてこの男は妻が元夫に会ったという事実に無反応なのだろう?

「この前言っていたよね。スージーを引き取りたいって」
「うん?…マジなのか?」

初めて龍彦の顔が曇った。

だから、どうしてスージーの話で反応するの…?

「新緑賞にノミネートされたんだって。文学賞の。それでね…」
「新緑賞?スゴイじゃん。さすがだね。それで?」
「まとまった収入になりそうだし、生活のめども立ったってことかしら。それでスージーと暮らせるマンション見つけたんだってよ」
「なんだよ、それ?」

気色ばんだ龍彦の顔を見ないようにして、百合子が言った。

「今すぐの話じゃあないけどね、スージーを引き取りたいって言ってる。」
「駄目だよ!」
「どうして?」
「猫は家につくっていうじゃないか。春夫さんのほうが出て行ったから場所は変っていないけど。
人間は1人が入れ替わってるんだ。
そりゃあ春夫さんも可愛がっていただろうけどさ。
俺だって負けないくらいに、いや、それ以上に可愛がってるよ。
それはスージーだって分かってるさ」

目の前にいる男が百合子を春夫から奪って今は龍彦と夫婦に納まっている。
あの時、少なからず龍彦は百合子に対する情熱を見せてきた。
しかし、今、スージーの話をする男とその男は果たして同じ人間だろうか?

「でもね」
語気を強めて百合子が言った。
「あの人は1人だもの。私があなたに取られたのよ、いわば。猫くらいあげたって…」

「猫くらい、じゃないよ!1年の間にあっち行ったりこっち来たり。可哀想じゃないか。」

「可哀想?」

ふふん、と鼻を鳴らして百合子が返す。

「可哀想なのは春夫だわ。1人で暮らしているのよ。」

百合子は「私があなたに取られた」という表現に特に反応しなかった龍彦に苛立った。

いや、待てよ。これ以上言うとこの人は言うかもしれない。

スージーが可哀想なのではない、自分がスージーと離れたくないのだ、と…。

ふぅーん、ふぅーん。

猫が2人の間を交互に見上げていた。

「よしよし…いい子だな、スージーは。分かるんだな、自分のこと言われてるって。」

分かるわけないわ…、と言おうとして百合子は言葉を飲み込んだ。

「そうだ。いいことがある。」

突然目を輝かして龍彦が言った。

「何よ、いいことって…」

「俺さ、春夫さんのマンション見に行こうかな。本当に猫を飼える物件なのか確かめにさ」

「ええ?何でまた」

「ほら、飼えるからって嘘ついて内緒で飼ってる人とかいるじゃないか。可哀想だもんな、声とか聞こえないようにしてさ。」

数日後。

百合子は図書館の4階にある閉架に収める書籍を乗せた台車をエレベーターで運んでいた。

4階には利用者用に半畳ほどの個室のドアが6つある。

学生の試験前などはすぐに塞がってしまうが、それ以外は部外者にも解放される。

その勉強室の一番端の部屋に見覚えのある後姿があった。

「あ…」

春夫だった。

春夫は百合子と結婚していた頃、いやその前からこの個室をよく利用していた。

ドアにある小さなガラス戸の向こうから百合子はそっと覗いて見た。

原稿用紙や広辞苑、現代用語の基礎知識などの辞書類や新聞のバックナンバーなどの資料が机の上に乗せられている。

春夫は頭をあげて机の正面にある窓の外を眺めている。

百合子はしばらく見つめていたが、やがてドアをノックしてみた。

トントントン。

「はい…?」

春夫が振り返る。百合子の姿を確認してああ、という顔を向ける。
百合子はドアを開けて春夫に声をかけた。

「ごめんね、執筆中に」
「いや、構わんよ。小休止。」
「まだここ利用してたんだ」

百合子はドアを開けて立ったまま話しかけた。
「今試験中でもないだろ。午前中は空いてるし、よく使わせてもらってるよ。引越し先は片付かないし、いくらネットで調べられるといってもネット情報は玉石混交だからな。昔の資料は閉架にたくさんあるしな」
「そうね。閉架を利用する人は先生方でもそんなにいないわ。」
「それと…あれ」
と、春夫は窓の外をあごで示した。
「え?…」

百合子は何のことか分からず、窓の外の景色を眺めた。
「浅子山。あれ見るの好きなんだ。なんとなく、ね…」
「へえ…浅子山ね…」

百合子は標高300メートルほどの浅子山を見た。
「日本の山って富士山に似てるだろ、形とか。いろんな山が。」
「そういえばじげもんは浅子富士って言ってるわね。高さは10倍も違うのにね」

「あのふもとの小学校あるだろ、浅子小学校が13クラスもできてマンモス化したから西小学校ができてさ。そこの校長に頼まれてこの前、児童文学の朗読会に行ってきたよ」
「あら、そんなのも頼まれるの?」
「校長が中学国語の免許もあるんだって。地元の作家さんに是非、って乗り気でね。校舎に強い風が吹いてきてね、浅子おろしっていうんだって。子供たちがキャーキャー言って渡り廊下を駆けていたよ」

「浅子おろし…」

「体育館に校歌が貼ってあったけど、浅子おろしってフレーズがあったよ」

「…あのね、6時10分頃また学食で待ち合わせていいかな。ちょっと話したいことがあって」

「うん?…いいよ、君も勤務中だもんな。じゃあ後で」

百合子は個室のドアを閉めて台車を留めてある閉架のほうへ向かった。

「お先に。あとお願いします」
百合子はアルバイトの学生2人に声をかけた。
「お疲れ様です」
安永という男子学生が意味ありげに百合子のほうを見てかえした。
百合子が出て行くのを見届けてから、もう1人の金子に耳打ちした。

「佐藤さんってさ、結構キレイだよな」
「うん…?ここの司書さんの中ではまあ若いし。30位かな」
「この前さ、学食でなんか非常勤講師みたいな男の人と話してたんだ」
「へえ…旦那さんじゃなくて?」
「旦那が職場に来るわけないじゃないか。そんな雰囲気じゃなかったし」
「ふうん…佐藤さんってバツイチじゃなかったっけ?」
「そうだってね。その男の人、割りにイイ男だったんで。やるじゃんって思ったさ」
「おまえ、あんまりそんな話するなよ。佐藤さんは他のおばちゃん達よりバイトに良くしてくれるんだからさ」
「あれ…金子ってああいうの、タイプ?」
「そういうんじゃないけどさ、俺だけにしとけよ、そういう話するの」
「優等生だなー、おまえ。でもあの男、なんかどっかで見た顔なんだよな…」
「非常勤講師かなんかだろ?」
「いや、そういうんじゃなくて、なんか…?あ、お前晩飯食べにいっていいぞ」
「おお。じゃあ頼む」
学生バイトは講義の無い時間帯は4時くらいから入っているので、6時頃交替で食事に行っていいことになっている。
金子は7時に学食が閉まる前に食事休憩に行った。

まさか学生バイトたちがこんな噂話をしているとも知らない百合子は洗面所で化粧直しに余念がなかった。
脂取り紙は男性用のほうが良く脂が取れる、これは春夫と付き合いだした頃にわかったことだ。
以来、百合子は必ず男性用のフイッツという青い脂取り紙を使う。
ファウンデーションから塗り直して、パウダーは軽くはたく。
色白の百合子はあまり白っぽいものを使うと塗り壁みたいになるので、あえてダークな色味のベースメイクをする。
口紅は今日のベージュ系の服に合わせてオレンジを塗る。
睫毛は長いほうなので、アイメークにはさほど必要ない。
出来るだけ素顔感覚のメイクに仕上げる。
香水はつけ直さない。
帰ってきた時、猫が嫌うからだ…というよりは香水のキツイ匂いをスージーが嫌がる、と龍彦が言うので。
6時10分を2,3分過ぎた事に気がつき、慌てて洗面所を出た。

学生食堂の前に行くと、春夫が缶コーヒーを持って外のベンチに座っていた。
「ごめんね、ちょっと遅くなった」
百合子が春夫に声をかけた。
「いや…定刻どおりに終わらないだろ、勤め人は。こっちは自由業だからどうしたって待つほうになるさ」
2人は学生食堂の中に入って空いている席に腰掛けた。
「食事していいか?君はこれを飲んでいるといい」
春夫は缶コーヒーを百合子に渡して、食券のある機械のところに行った。

間もなく、春夫はごぼう天うどんとサラダの置かれた四角い盆を下げて百合子のテーブルに戻ってきた。
「今日はなんかヘルシーじゃない?」
「あんまり腹も空いていないし…で、話って何?」
春夫はうどんのツユを一口啜った後、百合子を見上げて聞いた。

「うん…龍彦にね、スージーのことと貴方のマンションの話したの」
「それで?」
「なんか私の思ってたよりもスージーに執着するのね、あの人。前は猫とかそんなに興味無かったのに」
「ええ?龍彦君が?…スージーと仲良いのか?」
「そうねえ。スージーも懐いているし、龍彦なんか…」
帰ってくるなり自分よりも先に猫にただいま、を言う、と言いかけて百合子は口をつぐんだ。

「この頃やけにスージーにご執心なの。貴方がスージーを引き取りたいって言ったら、驚いてた」
「へええ。そうか…それで?」
春夫は箸を持ったまま、百合子を見据えて言った。
「なんだかスージーを渡したくないみたいなのね…」
「え、どうゆうことだよ?」
「私も驚いてるの。この人、そんなに猫が好きだったかなあって。なんかグズグズ言ってるわ。」

「渡したくないって龍彦君が言ったのか?」
「はっきりとは言わないわ。でもおかしなこと言い出してね」
「おかしなことって?」
「貴方の引っ越すマンションが本当に猫を飼えるところなのか、確認したいって」
「あれ?そういう話になるんだ?」
「物件を見に行きたいって言ってるんだけど…」
「俺は構わないけど?」
「でも…変じゃない、それ?」
「何が?」

妻の昔の夫がいるマンションを今の夫が訪ねる、その不自然さにどうして2人の男たちは気がつかないのだろう。
なぜ、私だけが気を揉むのか?
「龍彦君がスージーを大事にしてくれるのは嬉しいよ。ウチに確認に来たいってそりゃあ、別に構わないけど?」
「あの、そういうことじゃあなくて…」
百合子は元夫との噛み合わない会話の中で、総務課の話の分からないベテラン職員を思い出した。

「分からないな」
分からないのは私の方なんですけど。
ああ、でもこれは言わないでおこうかな…

「とりあえず、君だけ今日これから来てみたら?」
「ええ!そう来ますか!」
「昨日から権田さんが泊りがけで来てるんだ」
「へえ、権田さんが。熱心ね。こんな地方にまで?」
「新緑賞のノミネートがホンコの話になってね…」
「あら、おめでとうって、まだ言ったらマズイかしら?」
「まあね…権田さんが言うには俺で本決まりだって」
なあんだ、マンションに行っても私1人じゃあないんだ…
百合子は舌打ちしたいような気分になったが、表情には出さないように努めた。
「久しぶりで権田さんに会うのも悪くないわね?…いいわ、龍彦には適当に電話しとく。遅くなるって」

あれ…佐藤さん?あの男が安永の言っていた人だろうか…
金子は学生食堂で司書の佐藤百合子と一緒に出て行った男をじっと見ていた。
安永もなんか見たことあるって言っていたけど、気になるな、俺もなんか見たような気がする。
非常勤講師とかじゃなくて、なんか有名人…?
雰囲気あるもんな。
安永は運良く夕方まで残っていた定食メニューをテーブルに載せたまま考え込んでいた。

百合子と春夫の車で彼のマンションのある薬泉に向かった。
やがて2階に「猫カフェ イズミン」の看板があるビルの前を通る。
「ああ…スージーを貰ったところね」
「そう。結構繁盛してるらしいよ。俺も『29』の連載で取り上げたし」
29、というのは『猫マガジン 29』のことである。猫関連の雑誌だ。29は肉球に引っ掛けたネーミングである。
「猫カフェ巡りのレポートでしょ。貴方にぴったりね」
「おかげで全国の店を廻れているもんなあ…あ、あのマンションだよ」
同じマンションの1階にコンビニがテナントで入っている。
公園も近いし、駐車場も敷地内にあって悪くない立地のようだ。

春夫はカードキーを出して1階エントランスのドアを開けた。
「オートロックなんだ…」
ということは、家賃は高い。百合子は春夫の話は本当だ、と思った。
エレバーターで7階に向かう。このマンションは7階建てなので、最上階ということだ。
春夫の部屋はフロアのちょうど真ん中辺り。
カードキーを出して自分の部屋を開けた。

「どうぞ、入って」
玄関部分はさほど広くはないが、下足入れが作り付けになっている。
春夫はお洒落で靴にもこだわりがあり、たくさん持っているが1人分ならば十分なスペースだ。
細長い廊下部分にドアが3つ。
トイレ、風呂場のスペース部分と他のドア2部屋は寝室と書斎、といったところか。
リビングダイニング部分にドアは無かった。

リビングスペースに通されて、まず目についたものは壁面にステンレスの飾り棚のようなものがある。
開封されていない大小のダンボールが2つ。大きいものには「リビングキャット」、もうひとつは「ニャラット」というメーカーの文字が。

「あの飾り棚、猫タワーにもなるんでしょ、龍彦が欲しがっているのよ」
「へえ…龍彦君、相当スージーを可愛がってくれているんだな」
「あの大きな段ボールは何?」
「キャットタワーだよ。ハンモックもあるんだ。さっきの猫カフェにも似たようなものがある。店にあるのは古いから、全く同じものは製造していないけどな。スージーが気に入るといいけど」
小さな段ボールはスージーがいつも食べるフードのメーカーのものである。
春夫がスージーを迎え入れる準備をしていることが分かり、百合子は龍彦がこれを見たらどう思うだろう、と心配になった。

コーヒーメイカーの音がしている。いい匂いがしてきた。
春夫が出来立てのコーヒーを有田焼のコーヒーカップとソーサーに淹れて百合子の前に置く。
「ブラックだよな?」
「…有難う。いい柄ね」
「この前有田のレポートも書いたんだ。お礼にってメーカーが送ってきた」
春夫は本来の作家活動とは別に企業から依頼される仕事もちょこちょこと書いて、どうにか糊口をしのいでいたのだが。

「…もうすぐ文学1本でやれそうじゃない?こんなマンションに住めるようなら」
「まあな。でも企業や猫カフェのレポートだって嫌いじゃないよ。取材になるしさ。いつか何かの作品に反映できるだろうしね」
「そうね…あ、お客様じゃない?」

春夫は玄関に向かった。
やがて騒がしい男の早口な声が聞こえてきた。
月間新緑の編集者である権田だった。
縦にも横にも大きいがっちりした体つきで、学生時代はラグビーをやっていたということだった。
ブランド物の眼鏡をかけて、短く刈り込んだ髪。服装は英国紳士風のお洒落をやや着崩したかんじ。
妻が「アナザーカントリー」という英国映画の俳優たちの服装が好きで、権田もラグビー好きだから英国にも馴染みがあるということのようだ。

「あれえ、ハイヒールがあるね…女性のお客さまあ?…おっと、これはこれは、百合子さんじゃないですか」
「お久しぶりです、権田さん」
「ご無沙汰してます、相変わらずお美しくお若い」
「嫌ね、業界の人は東京で若い美人はたくさん見てるでしょうに」
「いやいや…そうでもないですよ、あれ、お邪魔だったかなあ」
「いえ、いいの。今日はマンション見せたいって連れてこられたから」
「龍彦君が、百合子の旦那さんだけど、この家を見たいって言ってるらしくて」
「はあ…今のご主人がですか?…」
そうなのだ。別れた妻の現在の夫が元夫の住居を見たがる。そんな不自然な話があるだろうか。
他人が聞いたらそう思う。

「春夫が猫をね、引き取りたいって言うからそれを主人に伝えたんです。そしたら、なんか気が進まないらしくて。結構猫を可愛がっているものですから」
「はあ…それで、家を見たいっていうのですか?」
「そうなの。本当に猫を飼える環境でなくては渡さないつもりかしら」
「で、百合子さんの判断は?」
「え…立派なものじゃないですか?あの飾り棚だって猫も気に入るだろうし」
百合子は権田の追及にたじたじとなった。

「僕はね、澁澤先生がいい作品を書ける環境ならば、猫がインスピレーションを与えるのであれば、引き取ることには賛成ですね。猫好きな作家はたくさんいますからね」
「ねこねこって言うけどね、権田さん、スージーはそんじょそこらの猫じゃないんだよ…」
「ああ、ハイ、分かってますよ、それで先生、来月の選考会の件なんですが…」
権田は春夫のスージー愛は聞き飽きているらしく、巧みに話題を変えたが、今度は百合子が遠慮したほうが良さそうな方向に来ていた。

「あの、お仕事の話なら私今日はこの辺で失礼します」
「あ、いや、いいんですよ、百合子さん」
「そうだよ、来たばかりなのに…」
「いいのよ。家を見せてもらうだけだから。じゃあ権田さん、また会えるといいですね」
「すみません、俺が追いたてちゃったみたいで」
「いいのよ。お邪魔しました…」
百合子は玄関先でハイヒールを履きかけると春夫が来て、
「悪い、また来てくれよ。今度は龍彦君の都合つけて、連絡してくれるといいから」
「そうする。この家見たらびっくりするわよ、あの人。じゃあね」
「またな」
バタン。百合子はドアを閉めて出て行った。
どうしよう、なんて言おう。春夫は何もかもスージーのために揃えて迎え入れる準備をしている、って?

同じ時間帯の大学図書館。
夕食を学食で済ませた金子がカウンターに戻った。
安永に向かって「俺も佐藤さんと男の人が一緒にいるのを見たよ」
「あ、今日も来てたの?あの人4階の個室良く使ってるしな」
「俺もなんかあの人、見たことある気がするんだな…」
「そうだろ、ほら、これだよ」
安永は「しんりょく」と書かれた小さな雑誌のあるページを開いて見せた。
月間新緑が出している無料の小冊子だった。
ある作家のエッセイのページに顔写真がある。
「あ…これ、あの人だ」
澁澤春夫の短い紹介文と小さな写真が掲載されている。
「あの人、作家だったのか。どうりで」
「澁澤春夫が東京じゃなくて地元で作家活動をしているって話は聞いてたけどな、まさかこんな近くでとはね」
「そうか…おい、パソコンで調べてみないか?」
金子はインターネット上の百科事典サイトを立ち上げた。
澁澤春夫の項目には出身地や卒業した大学などが書かれている。
離婚歴が1回。

「離婚歴…?佐藤さんもバツ1じゃあなかった?」
「あ、そうだよ。それも相手の人は作家だって吉田司書が言ってた」
「じゃあもしかして、澁澤春夫が元旦那ってこと?」
「かもしれない。おい、安永、これは他に漏らさないようにしとけよ」
「お前、やっぱり佐藤さんが好きなんだな…」
「そういうんじゃないって。お前だって澁澤春夫の作品は結構好きだって言ってたじゃないか。だったら敬意を示せよ」
「まあね…でも、サインぐらいは貰ってもいいだろう?どうせまた図書館に来るだろうから」

安永は金子よりもちゃっかりした性格のようで、金子の純情さに鼻じらむ思いだった。
春夫のマンションの階段を降りる。
百合子は国道に出て、タクシーを物色した。
個人タクシーがすぐに見つかったので停めた。
「大峰町まで」
50代くらいの運転手は前のフロントガラスに小さな招き猫を置いていた。
交通安全のお守りも猫をかたどったもので、他にも猫のぬいぐるみ、マスコットの類が置かれている。どうやら猫好きの運転手らしい。

「運転手さん、そのお守りどちらで見つけたんですか?」
「あ、これ?招き猫で有名な聖徳寺ってあるんですけど、そこに行って買ったのですよ」
「まあ、わざわざ…」
「私は猫が好きなもんでね」
「あら、そうなんですか。うちにも一匹いるんですよ」
「ほうほう。猫種は?」
「シャム猫の雑種なんですけど。女の子です」
「いいですねえ…可愛いでしょう、洋猫と日本猫の雑種は」
「そうですね、綺麗ですよ。運転手さんはどんな猫飼っておられるの?」
「うちはそんな洒落たのはいないですよ。三毛猫と茶トラの男の子です。お客さんが停めてくれなかったら、そいつらを拾った所に行こうかと思っていたんですけどね」
「あら…捨て猫を保護されたんですか?」
「そうそう。トランクにね、連中のお仲間にやるフードも入れてますよ」
運転手はあごで車の後方を指し示した。
「猫おじさんなんですね」
百合子は龍彦が犬の散歩に行く公園にも野良猫が多いことを思い出した。
あの人ももしかして、猫おじさんかもしれないわね…?

「あの、ちょっと変なこと伺いますけど」
「何でしょう?」
運転手はバックミラー越しに百合子のほうを見た。
「自分が飼っている猫に以前、別の飼い主がいるとしますね…」
「はあ」
「今住んでいるアパートが飼えないからって事情で手放したとします。それが、引越し先はペット可の物件なので、返してくれって言われたとして…」
「そいつは、込み入った話ですね」
「いえ、友達の話なんですけど。それが今の飼い主が最初はそんなに猫が好きでもなかったのに、情が移っちゃって、手放したくない、って言ってるのですよ」
「うわー。そいつは大変だ」
「でしょう?どうしたらいいんでしょうね…」
「例えばね、猫ならどんな子でもいいとか、多分そのお友達は思ってはいないだろうと。他の子を新しく飼うようにしたら、今可愛がっている子は忘れられるかって、そういう問題でもないでしょうよ」
「そうですね、私もそう思います」

相談しているのにその答えでは解決にならないではないか、と百合子は言いそうになった。
しかし、乗客に行きがかり上、振られた話題に親身に乗ってやってる運転手は親切だと思わなくてはならないだろう。