近況報告その2:ジプシー生活から会社人になって1年を振り返る。 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

さて、ジプシー生活を終えて、会社勤めを始めたことを前回書いた。

> https://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12413434590.html

 

その後、半年ほど経って色々と感じたことを綴ってみよう。

「ジプシー、にっぽんの会社に勤めてみる!」ってな感じのルポですね・・・

 

その1:同僚という体験

 

会社には「仲間」とか「同僚」とか「後輩」とか「上司」がいる。

これが、なかなか新鮮だった。

卒業後に入社した会社で、すぐにお客さん先に常駐になってしまって

回りはみんなクライアントだったし、

その後は独立して、ほとんど一人でやってきたので、

「自分の会社の仕事を、自分の会社の人たちとやる」って経験は新しい感覚。

 なかなかイイものだ!


仕事帰りに飲みに行って(僕は飲まないけど)、

業界のことや会社のことを話したりなんて、

ドラマの中でしか見たことない世界。

おお!サラリーマンだ!みたいなね。

 

もちろん人それぞれなのだけれど、

「会社に勤める」という在り方(生活リズム、社員という身分や肩書、

営利を追求する、指示と命令で動く などなど)は、

ある種の共通した価値観を創り出すように思う。

 

だから、彼らの世界を隣で眺めてみるのは、新鮮な体験だった。

ビジネスの世界を動かす論理と倫理を、

僕は今日もなるほどねーっと眺めている。

 

 

その2:出会いはビジネスのために。

 

会社というのは、ともかく不思議なルールに満ちているのだけれど、

特に、人間関係については、衝撃だった。

 

例えば、仕事の中で出会った人は、

「お客さん」とか「取引先」と呼ばれる人なので、

友達になってはいけないわけ。

 

今、どんな風に生きているの?何を体験しているの?

どんなことに気が付き、何を学んでいるの?

 

そんな会話はNG(みんな、知ってた?)

ビジネスの世界では、人と人が出会うのは、「ビジネスのため」なんだ。

 

相手の人生に触れること、分かり合うこと、
互いを通じて自らを発見していくこと・・・

 

そういうことは、求められていない。

これ、皮肉で書いてるわけじゃなくて、

僕にとって人との出会いって、常に、そういうことのためだったから

みんながそれを求めていないことが分かったときは、

なかなか衝撃だったわけ。

 

まぢか!・・・まぢか!・・・まぢか!

ってな感じになりましたよ。

 

そうそう、最初の頃、それが良くわかっていなくて、

仕事関係で出会った人にそういう話をしたら、

ドン引きされたのは良い思い出。

 

 

その3:儀式がたくさん

 

会社では、初めて会う人とは、名刺交換というのをする。

●●社の須藤です!と名乗り、名刺を交換する。

そして、しばし当たり障りのない会話をしてからビジネスの話に入る。

 

この催しは、恭しく行われる必要があり、

渡す順番も大切だ。

 

こちらも、そちらも、偉い人から順に渡さなくてはならない。

これは厳密に行われる必要がある。

なぜかというと、これは、「交換の儀式」だからだ。

 

構造主義哲学の始祖、文化人類学者のレヴィ=ストロースが論じたように、

人は3つの交換を通じて社会を創り出した。

・言葉の交換=コミュニケーション

・モノの交換=経済

・女性の交換=親族システム
(※敢えて書いとくけれど、なぜ「女性」かというと、

  種の維持という観点で男性の交換は全く意味がないからです)

 

交換というのは、人類にとってものすごく重要な機会なのだ。

そう、人類が人類であるために、不可欠なこと。

 

ビジネスの現場に「交換の儀礼」が残っており、

そこから関係を開始するというのは、

大変に人類学的興味をそそる。

 

けれど、そんな長い長い人類史に思いを馳せながら

名刺交換をしている人は、僕の周りにはいなさそうだ。

 

 

その4:常識的であることは何より尊い。

 

これも、儀式の話なのだけれど、

ビジネスというのは、半分くらい「儀式」でできている。

 

例えば、何か頂いたりご馳走になったら、

翌日には、すぐにお礼の電話なりメールなりをする必要がある。

手紙を出すこともある。

 

感謝の気持ちが溢れてしまって思わず電話をしてしまう・・・という人は、

正直、少数だろう。なのに、多くの人がそれをする理由は、

「そう決まっている」からだ。

ビジネスでは、それがルールなのだ。

 

これは、面白い仕組みだ。

 

翌日に「お礼メールを出す人」は、「ルールを知っている人」。

つまり、自分と同じルールを共有していて、

かつルールを守る安全な人間だというわけ。

 

このように、「ルールに従ってみせること」に価値が生まれると

それ自体が目的化してくる。

つまり、ルールを生きること、ルールに従順であることが、

「美徳」と見なされるようになるわけだ。

 

そして、ルールに則って生きていること、

常識人であるということが、まるで、素晴らしいことのように思えてくる。

(実際は、無害な人というだけだけども)

 

そして、逆に、ルールに従わない人、おかしな動きをする人、

儀式につきあわない人は、「悪」とされ、厳しく排除される。

 

常識人を生きるのも、ひとつのチョイスだ。

誰もが生きたいように、生きる権利を持っているからね。

 

けれどそれは、なかなかに大変な道だ。

ルールを守る常識人であるために、

常に、自分を律し、他人も律し(←ただのお節介ね)

いつも、ルール違反に怒ってなくてはならない。

期待外れに憤慨していなくてはならない。

これはね、はっきり言って、百害あって一利なしだ。

 

別の道を選ぶこともできる。

それは、ありのままの自分、自然な自分へと向かう道だ。

そこには、軽やかで自在な生が待っている。

 

そこに向かうには、ルールから離れるしかない。

自分の信じる、硬く信じる常識を、正義を、人としての正しい在り方から
離れるしかないんだ。

 

「離れる」というのがポイント。

ルールを全部無視しようというんじゃない。

ルールを、あくまで儀式だと、ひとつのゲームなのだと

気が付いていようねってこと。

 

すべてはゲーム。

 

それに気がついたとき、

なんで自分がそんなことに深刻になってたのか、

笑ってしまうよ。

 

ゲームは深刻にやるものじゃない。

楽しむためにやるものなんだからさ。

 

 

 

さ~て、そんなわけで、人間社会の縮図の中で、色んな発見をしながら

過ごした1年間が終わり、来年はどうしようかな~というタイミング。

 

なかなか愉しかったけれど、少々窮屈に感じているのも事実。

そろそろ自由が呼んでいるな~ふふふ

 

さてさて、そんなわけで

僕の人生が僕をどこに運んでいくのか

誰より楽しみに眺めております。

 

それでは