高校時代、大学時代・・・今の知識を持って、あの頃に戻れたら・・・
誰もが、一度や二度は、そんな想像をしたことがあると思います。
僕も、そんなコトを考えることがあります。
もっと勉強をしておけば!せめて英語ぐらいは・・・とか、
もっと人の目を気にしないで、自分の好きなことに打込めばよかった・・・とか、
色々、思うことがあります。
どうして、僕は、自分の将来を、あんなに限定的に考えていたのだろう。
もっともっと、可能性はあったのに、自分の想像がそこまで、至らなかった。
自分の世界観が、届かなかった。
今思えば、あの頃、僕らは、もっともっと自由にできたし、
可能性はもっともっと存在していたんです。
・・・でもね、きっと10年後、今を振り返ったら、
僕らは、同じことを言うのだと思います。
「あの頃、どうして、あんなに常識的だったのだろう!」と。
「どうして、『もう遅い』だなんて、決めつけて、挑戦しなかったのだろう」と。
そう、
今、目の前に見えている壁や、難しいと思っているコト、
自分の限界や、可能性は、きっと自分が勝手に決めているだけなのです。
僕らは、気がつかないうちに、自分で決めてしまった限界の中にいます。
自分が感じる限界/難しいと思うこと/それはできない・・という分水点は、
全て、自分が、自分で決めてしまったモノ。
自分が、「信じているから、存在する枠組み」なんだということです。
自分が持っている信念が、自分が生きられる世界の限界点だということです。
・知:信じているコト = その人が、生きる世界。
大学時代、勝手に創ってしまった
「新卒逃すと、さあ大変!」「一流企業に就職しないと、さあ大変!」
というファンタジーは、
「雇ってもらう以外に、道はない」という無意識の信念と相まって、
とてもとても、リアルに響きました。
しかし、今思えば、それがいかに「無根拠だったのか」が良くわかります。
高校時代に、大学に行って、とか、就職して・・・という判断も、
もしかしたら、もっと幅広い可能性の中で、選択し得たのかも知れません。
さて、今見えている世界の限界、目の前に今ある「動かせない条件」というのも、
同じく「ファンタジー」なんです。
信じているから、存在する様に見えるモノ。
何か窮屈だったり、自由でなかったり、
やりたいことができなかったり、足をひっぱるモノがあるのなら、
縛っているのは、「自分自身」です。
自分自身の
・これは動かせない
・これは辞められない
・これは、仕方ない
と決めているコトが、その窮屈さを創っています。
・今、それをやめたら、迷惑がかかる
・きっと、批判される
・それをしたら、きっと失敗する
・自分がやるしか、ない
・選択肢は、ない
・変えられない ・・・etc etc
そんな、「確かそうなコト」は、
きっと、10年後、20年後、振り返れば、「ファンタジー」。
であるなら、今、そのファンタジーを出ることができるということです。
その自分に課した制限から、自らを解き放つことは、できるということです。
僕は、ここのところ、「嫌」になりました。
なんだか、自分が、とっても窮屈に感じたのです。
自分で居るのが、窮屈。
それは、とても不思議な感覚でした。
・なんで、こんな窮屈さを、自分に課しているの?
そんな問いが頭をよぎり、
そして、ふと、今、自分が思っている
「きっと、こうだ」「こうに、違いない」という思い込みが、
全てファンタジーだということが、腑に落ちたのです。
・・・気を遣う、気に病む、気に障る、気にする・・・
この辺りを、終えていくこと。
それが今回のテーマのようです。
そのテーマに取り組むことを通じて、
これまでの僕という枠組み・・・「自分」というファンタジーから解放され、
また新たな「自分」を再構成するのです。
そう、もっとも大きな、そして強いファンタジーは「自分」という意識。
自分の認識パターン、思考パターン、行動パターンから、自らを解き放っていくこと。
それが、僕らを、想像を超えた未来へと導いてくれるのだと思います。