焦らずいこうぜ! | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

僕らは、胸に小さな哀しみを抱え、
あんまり思い出したくない出来事があり、
許せないコトや、人に言えない「ちょっとした秘密」があります。

それらは、時に、心のブレーキとして機能し、
夢の実現を妨げ、人間関係を複雑にし、深い苦悩を僕らに与えることもあります。

だから、心の中をクリアリングして、
恐れや、ネガティブな観念、執着を、手放していくのだ・・・!
様々な英知が、そう伝えています。

僕は、それを「基本方針としては、正しいこと」だと思っています。

だから、僕はセラピーを通じて、そのサポートをしているし、
自分も、長らく、そうやって生きてきました。
でも、最近、ちょっと、その考え方にも、変化がありました。

それは、「全てを解放していくこと」を、
「結果」と考えるようになったことです。

これまで僕はそれを、ぼんやり「生き方」として捉えてきました。
「そうやって生きよう」と思ってた。
つまり、「行動規範」に据えていたということです。
でも、それが、困難な状況が生んでしまうのが、見えてきました。

僕が、それを痛感したのは、20代後半のこと。
つまり、ついこの間。

僕は、それまで自分のコトを
「協調性の高い、仲間思いの人間だ」と思ってきました。(→ 笑うトコロ)
しかし、会社を立上げて、明確な利害関係の中に置かれた時に、
自分の本質に、気がつかされました。
僕は、縛られるのが大嫌いで、自分の思いつきのままに行動する、
頑固で感情的な人間でした!

だけど、本人、長い間、まったく、それに気がつかなかった。
なぜなら、僕の中に、
・相手を尊重するコトは、正しいコト
・怒りや恐れによって行動するコトは、ダメなコト
という「教え」が、深く刷り込まれていたからです。

だから、自分のそういう「わがままな部分」は、見ないことに決めていた。
そのうちに、本当に、自分では、見えなくなってしまって
生まれてこのかた、協調的な人間だと思い込んでしまったんです。

そして、「わがままな自分」をすっかり抑圧して
自分を押し殺して生きるコトをしてきたわけです。
なかなか、大変ですよね。

さてさて、この話のポイントは、
・相手を尊重するコト
・怒りや恐れによって行動しない=愛をもって行動する
というのは、
両方とも、とても、善いコト、素敵なコト・・・だということです。

そのコンテンツ(語られている内容)は、正しいのです。
その「教え」は、間違っていない。
しかし、その「正しい教え」が、僕らを縛り、抑圧する・・・

ここから見えてくるのは
 どんなに素晴らしい哲学、倫理、真理・・・であっても、
 それを自らの「行動規範」として採用した時に、
 僕らは、自分の本質から遠ざかる。
ということです。

「教え」の内容が間違っているとか、合っているとかに関係なく、
”「教え」を「行動規範」に据える”・・という仕方そのものが、
問題の発生源だったわけです。
ということで、僕は、その辺りを、もう一度、明確にしようと思いました。

★結論★
「教え」(=生きるための知恵、人生哲学、倫理・・・)とは、
「結果として、いつか、出来る様になるコト」、
即ち、「ゴールのイメージ」を語っているモノだということ。
懸命に生きると、いつの日か、辿り着く地平の描写だということ。

・・・こう書いてしまうと、「当たり前じゃん」って人もいるかも知れませんが、
しかし、案外、盲点だったりもします。

「ゴールのイメージ(=結果として辿り着く場所)」を、
今、自分が「従うべき行動規範」と、誤解することに生まれる困難は
けっこう、多いと思うのです。

例えば、昨今、良く目にする状況があります。
それは、「全てを許そうシンドローム」(と、今、勝手に名付けました)です。

 ・執着しないこと
 ・全てを許し、手放すこと
 ・「今、ここ」を生きるコト
 ・ありのままの自分を愛すること。
 ・全てに感謝すること ・・・などなど。

ヨガブーム、スピリチュアルブーム、心理学ブームの中で、
盛んに取り上げられている考え方です。
僕は、その在り方、語られている内容に、ほぼ、全面的に賛同しています。
そして、自らも、そう在りたいと、思っています。

しかし、これは、「ゴールの像」の話です。
もちろん、それを意識する中で、たくさんの発見もあるし、
大いに成長できるでしょう。
しかし、それを「行動規範」に据えてしまうと、
「教え」の本質からも、自分からも、ズレていってしまうのです。

例えば
・本当は怒ってるのに、「全てを、許すのだ」・・・と言い聞かせてしまう。
・本当は欲しいのに、欲しくなんてない・・・と自分に嘘をついてしまう。
・イライラしているのに、意識的に心を落ち着かせてしまう。
すると、「怒り」も「欲望」も「イライラ」も、心の深い場所に隠されてしまいます。
起こるのは、自分の感情(心)と理性(頭)の分離。
結果、自分の生き方が見えなくなってしまいます。

全てを許す・・・という、とても、気高く、深い思想であるが故に、
それを規範にすると、苦しくなってしまうのです。

いま、意識が高い人ほど、
この問題に直面している気がします。
知らず知らず、自分の行動を「思想」に当てはめてしまう時、
僕らは、むしろ、その思想から遠ざかってしまうことになります。

そんな時は、等身大の自分の地平に戻ることです。
「怒り」に任せて行動したり、欲しい気持ちに正直になり
鈍愛し、執着し、わがままをして、憎み、大いに怒ること。
もう一度、そこから、開始すれば、いいんです。

無理に、怒りを手放したり、恐れをなくしたりするよりも、
ちゃんと怒りを感じたり、恐れたりすること。

現実から離れた場所で、解決を模索するより、
現実的な問題・・・親との関係や、めんどくさい人間関係を、自分の感情を、
ちゃんと生きるコト。

それが、とっても大切なコトなんだな・・・
改めて、最近、そう感じています。

それをしていると、きっと、自分に今、一番必要なコトが見えてくる。
一番ふさわしい「気づき」が、やってくる。
それが、僕らを、必ず、導いていってくれます。

そして、ある日、きっと、僕らは立ち会います。
自分が、真理を、自らの内側から発見する瞬間に。
僕らは、その時、口にします。
やっと、あの言葉の意味がわかった、と。
その瞬間、真理は、自分のモノになる。
一つのゴールに辿り着く。

もちろん、それは、あくまで「結果」です。
自分にまっすぐ向き合って生きた結果、見えてくるモノ。辿り着く場所。

僕は、胸に小さな哀しみを抱え、あんまり思い出したくない出来事があり、
許せないコトや、人に言えない「ちょっとした秘密」があります。
だから、今、そんな自分を生きています。

さーて、焦らずいこうぜ!!

P.S.
でも、「全てを手放す場所」に、いつか、きっと辿り着こうと思います。
だって、そこから見える景色がどんなものか、どうしたって知りたいからね!