学びとは | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

先日、心理学を学びたい・・・という方に会った。
「部下の管理」に役立つから・・・とのコト。
とても、良いですね~と思わず、大推薦。

でも、それは「役立つ」からではない。
きっと「役に立たない」からだ。

ある知識やスキルが「役立つ」と口にする時、
僕らは、自分が、何か道具を使う様に、知やスキルを扱うようなイメージを持っている。

・食べるために、「お箸を使う」
・買うために、「お金を使う」
・マネジメントのために、「心理テクニックを使う」

・・・ね、同じでしょ?

でもね、そうじゃないんです。
そう考えている限り、「学び」は、起きない。

それは、サッカーを観客席から眺めて理解しようとしているのに、似ている。
1000回眺めても、全てのチームと選手を知っても、
サッカーの本質は、決して分からない。
ゴールの歓喜も、ドリブルの興奮も、わからない。

「学び」も同じ。
自分は、どこか安全な場所に居て、
そこから、ふーんそうなんだー と 眺めている限り、学びは起きない。
それは、「学び」ではなく、「情報収集」。

・学びとは、「学んだモノが、学ぶ人を変えていくコト」。

僕も、哲学書を読み、
読み始めるときと、読み終わった後で、
文字通り、セカイが全く異なるモノに見える体験を、何度もした。
それこそ、頭の中のプログラムが、書き換えられた経験。

読み始めるときは、予想すらできない、想定すらできない
視点に自分が立っている。それが、学びという体験。

だから、「役立つ」なんていうレベルのモノは、情報収集=雑学。
なぜなら、今の自分が想定できる様なモノは、「学び」ではないから。
学びとは、想定すらできない次元に、シフトすることです。

「自分が、その知を使う」という発想をしている限り、
本質には、決して辿り着けない。
自分が安全な観客席に居る限り、永久に、本質には辿り着けない。
「ワタシ」という感覚に、固執している限り、知は、呼びかけて来ない。


だから、「役立つ」レベルで、学んだ知は、
結局のところ、「雑学」なので、そう役には立たない。

逆に、自分のこれまでの既成概念や価値観を根本から突き崩す様な知、
即ち、自分に取って「なんだか、痛いコト」にこそ、学びはある。

自分を揺さぶる知、自分を自分で居させてくれない知、
居着くことを許してくれない知、自分を変えていってしまう知、
・・・それは、「危険な香りのするモノ」です。
それは、時に怖いし、危ない。
その感覚は正しい。

だから、そこに身を乗り出す勇気が、必要なんです。
自分の知を一度捨てる勇気、自分の常識を捨てる覚悟。
それだけが、僕らを、連れて行ってくれる。
きっと、扉を開いた時にだけ、見えるセカイが広がっています。

学問もそう、アートもそう。スポーツもそう。芸事もそう。
全ては、その様な知の体系、人を漂流させ、新たなワタシへと越境させる仕組みを
その背後に隠しています。

「役立つ知」のレベルでも使えますけど、
その奥には、人間を変容させる、研ぎすまされた英知が眠っている。

もちろん、入り口は、かっこよさそう、面白そう、部下の管理に役立ちそう・・・
でも良いんです。でも、その入り口から、奥地へと旅していくと、
ある日、扉の前に立つ。

僕らは、その扉の前で、それまでの自分を脱ぎ捨てることになる。
(時に、それは、自分の一番大切な「モノ・人・考え方」との別離です)

そして、新しいステージへと、入っていくんです。
それが、自分を超えていく体験です。

学びとは、いつだって、自分を超えていくこと。
僕らは、きっと、そうやって、どこまでもどこまでも、いくんです。