正義をめぐって(前編) 〜忠臣蔵と日本人〜 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

今日は、ちょっとまじめに、社会論。

日本人が大好きな物語に、忠臣蔵がある。
「仇討ち物語」がなぜ、こんなに人気があるのかというと、
それは、とってもわかりやすい「正義」が描かれているからだ。
なぜ、それが人気なのかというと、
我らがジャパンにおいては、「正義=善いコト」が、いつだってぼんやりしているからだ。

キリスト教、イスラム教などの一神教文化圏においては、
「このセカイには、「善」と「悪」がある」という点については、合意がある。
何が善か、何が悪か・・・を巡っての絶え間ない議論はあろうとも
このセカイには、「善」と「悪」という枠組みがあるよー
ということ自体は、皆に合意されている。

だから、日々の生活・・・人を助けたり、働いたり、祈ったり・・・
の中で、お墨付きの「良きこと」を選択して、正しいコトをしている実感を得ることができる。
これは、精神衛生上、とっても良い。
(もちろん、大きな視野で見れば、それは「問題」でもあるんだけど)

逆に、日本においては、自分の行為が正しいか悪いか・・・を
自信を持って宣言できる人は、ほとんどいないだろうと思う。
「人が生きる上での、根本的な善とは何か」を考え、定義し
その定義に照らし合わせて、自分の行為の正当性を確かめる
・・・という考え方を採用している人は、ほとんどいないからだ。

この「自分の行為が、正しいのか悪いのかが、わからない」という状況は
ちょっとした”ストレス”になる。
そこで、満を持して登場するのが、「正義の物語」である。
僕らは、「忠臣蔵」を見ていると、
自分たちのあいまいで、ぼんやりとした「良いコト」「悪いコト」の基準を
すっぱりと切り分けてもらうことができる。
だって、吉良上野介は、わるいやつだもん。どう考えたって!

そこで、僕らは大石内蔵助に自分を重ね、
普段自覚できない、保証されていない「自分の正義」を、強く実感する機会を得るのだ。
だから、すっきりする。とーってもすっきりする。
それは、「癒し」だ。

だから、僕ら日本人は、「正義を実感する機会」に、強く魅せられてしまう。
自分が、「正義」であると、感じられる機会を、強力に求め、その悦楽に溺れてしまう。

だから、僕らの勧善懲悪傾向や、付和雷同体質は
「和を尊ぶ=みんなと合わせることを、良しとする」文化に根ざすというより
僕ら一人ひとりが、
「はっきりと、悪い人間を見つけて、懲罰することで、自分の正義を実感したい」
という欲求を、強烈に持っているコトに、始発しているのだ。

そして、社会において「絶対正しいコト」が存在しないが故に、
この「自分の感じた正しいこと」や、「声の大きい誰かの意見」が
そのまま、社会正義へと変わっていきやすくなる。

ここに、善悪を決めない事なかれ主義と、正義への強い陶酔傾向の併存という
日本的な状況が生み出されるのである。

しかし、この日本的な状況、実は、特殊なモノではなくなってきている。
現在という時代は、「絶対的な真理」が失われた時代である。
先進国と呼ばれる国々において、宗教的な権威は、日に日に低下している。
人々は、絶対的な善悪を失って、ぼんやりとした正義を生きざるを得なくなっている。

すると、先進諸国が今後迎えるのは、まさに「日本的な状況」だということだ。
実は、今、「日本に生きる」ということは
これからの地球の将来像を、先んじて生きるという
とても、恵まれた状況であると、言ってもいい。
実は、そういう意味で、セカイの視点は日本に注がれているのである。

さて、ポストモダンを、いかに生きるか。
真実なき時代を、いかに生きるか。
次回、その一つの在り方を思案してみたい。