深く味わう | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

食べるとは、料理を通じて、料理人が込めたメッセージを聞き取っていくこと。
素材への敬意、それを表現する為に研鑽された技術、そして食べる側への想い
それを味わい、その一皿が語りかけてくる声を、聞き取ること。

以前、タベアルキストのマッキー牧元さんとご一緒した時に、
「食べること」について、そうおっしゃっていた。

彼の舌には、そうやって受け取った食の記憶が、重なっているのだ・・・
彼が「味わう」時に、その巨大な食の経験値が、
目の前の一皿に向けた、より深い「解釈」をもたらすのだろう。

僕は、同じことを、ある音楽家の方にも教えてもらったことがある。
クラシック音楽という、「決められた音楽」を演ずるのは、なぜなのか。
そう問うた僕に、こう答えてくれた。

全く同じ「楽譜」を演奏しているが故に、
その演奏者の意図、解釈、メッセージ、それが如実に立ち上ってくる。
ロックやジャズ、ヒップホップだって同じ。
しかし、「形式」を前提したクラシックは、それが最も純粋な形で存在しているんだと。

ひとつのメロディを聴く時に、
彼の耳には、彼がこれまでに聴いた無数の演奏が、交響しているのだ。
だから、彼は、演奏者の人間性までそこに聞き取ることができるのだという。

深く味わうとは、メッセージに耳を傾けることだ。
目の前の一皿に、旋律に・・・風景に、言葉に、行動に・・・
そこに、込められたメッセージを聞き取ろうと「意志」することだ。

・問いかけた時にだけ、答えは与えられる

僕らは生まれてから、今日までの、全ての記憶を持っているそうだ。
そして、その記憶群は、今日の僕の感覚・感性・趣向・生き方・価値観・・・
全てに、巨大な影響を与えている。

だから、「一つの言葉」には、それを発した人間の、全ての人生が込められている。
そして、「聞き取った」人間は、自分の全ての人生を重ねて、その言葉を解釈する。
僕らは、常に、記憶の中にある無数の経験越しに、セカイを経験する。

だからこそ、目の前の経験の特異性を味わうことができるのだ。
無数の経験の中でこそ、目の前のひとつの経験の固有性が見えてくるのだ。
10000人に出会ったから、あなたの、かけがえない固有性を、より深く理解しうるのだ。

毎日の日常があるから、一瞬の非日常的な瞬間に気がつく。
毎日、同じアーサナ(ヨガのポーズ)をするから、今日のアーサナの固有性に出会える。
毎日、同じ自分だから、今日のワタシを感じられる。

だから、年を重ねるとは、新鮮さを増していくことだ。
経験を重ねるほどに、新しい経験はより深く、より特別で、より新しいモノになる。
僕らは、経験を重ねることで、むしろ、経験から自由になる。

だから、問おう。

・なぜ、「そこ」に「それ」が「そう」あるのか。

きっと、コペルニクスも、ダーウィンも、レヴィ=ストロースも
目の前の現実に、その問いを向けたのだ。

込められたメッセージを聞き取ろうという「意志」の向こうで、現実は交響を開始する。
そこにある、現実が、たったひとりの自分のために、語りかけてくる。

人生を、深く味わうことは、きっとそういうことなんだ。