7月の終わりにフランスへ戻ってきた。
湿度の高い日本でふぅふぅ言っていたけれど、
カラッとした陽気に思いっきり深呼吸したくなった。
まあ、その代わりに肌の乾燥対策は大変だけれど。

随分間があいてしまったけれど、毎日細々と生きている。

彼には息子ちゃんたちがいるが、彼らに会うとヨーロッパの子どもたちの感覚の違いに良い意味でハッとさられる。

この国の子供たちは、色んな家族の形が当たり前にあり、例え離婚しても共同親権だから双方の親が割と頻繁に連絡のやり取りをしたり、時には行き来をする。
もちろん、子どもたちも。

時には、割り切れない感情やその中には葛藤やトラブルが起こらないわけではないだろう。

でも、親も子どもたちも、まず自分の人生があって、
それをどう生きるか。もちろん子供のためという意識がないわけではないけれど、お互いの人生にべったりしていないドライさを感じる。ドライという言葉は消してネガティブな意味でなく、相手に対して妙な依存や執着がないから、とってもフラットな感じ。

私と頻繁に会うわけではないけれど、気負いのない彼ら。「パパの彼女だよ」っと、自分の彼女にもサラッと紹介する。
何を驚くほどのことじゃないと言われるかもしれないけれど。。。

彼がある日、記念写真撮ろうとカメラを息子ちゃんカップルに向けると、おとなしい息子ちゃんがサラッと彼女の腰に手を回し、すかさず彼女も両腕で彼を抱きしめるようにしてラブラブな決めポーズをする。

慣れない私は親の前でとドギマギするけど、彼らには普通のことなんだなぁと新鮮な気持ち。
そして、ああ、いいなぁと思った。
好きなものは好き、彼らはそれを非常にストレートに素直に表現する。なんだか清々しいなぁと。

私はどちらかというと母親との距離が近く、母親からイエスをもらうことが人生の大きな拠り所だった。
離婚して帰ってきた時も、私と娘に惜しみなく手をさし延べてくれたし、そのお陰で私は仕事に集中して経済的には困ることなく娘を育てることができた。

でも、娘が成人をして私よりも器用に自分の世界を広げ、上手に親や祖母との距離をとっていく中で、私と母はお互いに自立をしあえていない関係であること。
母のイエスに縛られて、私がしたいことではなく、母の求める最適解をいつも探している自分に気づかされた。

50歳になって残りの人生を考えた時に、やりたかったこと、やれなかったことを私はいつか、娘を育てるため、母のためと言い訳をして、いつしかそれを怒りにして彼女らに向けてしまうような気がした。

ある日娘に、「好きな人がいて、その人と生活してみようと思うんだ」っと、成人した彼女に初めて告白した。
「へぇ、なんかいいねぇ、素敵なことだよ」っと。そして続けて、「一番したいことをしなきゃダメだよね。ママ、やりたいことをしていいんだよ」っと。

ああ、フランスの子ども達だけでなく、この子達の世代はなんて器用に周りに柔軟で、私の何倍も幸せ探しが上手なんだろう。
私は自分の頑な不器用さと、そんな自分が勝手に背負って息苦しくなってるしがらみとを比較して、

娘の笑顔に泣きそうになった。
ああ、この子は大丈夫。そしていつの間にこんなに大人になってしまったんだろうと。
彼女と2人の家族になった時に、その小さな娘を見ながらこの子が大人になるのは遥か先に思っていたのに。
この子をなんとしても守ると気負っていたのに、娘はちゃんと自分の足で立って私を労ってくれる大人になっていた。

今、フランスにいる彼と娘は、私よりも頻繁にメッセージをやり取りして近況を報告しあっている。
しょうもないこと、「あなたのママは今日もケーキを食べています」とか

ねぇ、もっと、なんかキラキラしたメッセージはないの?って言うようなものばかり🤣

でも、なんかいいなぁ、ありがたいなと思う。