加藤紘一氏死去
加藤紘一氏が、肺炎のため77歳でその生涯に幕を閉じた。
一時は、保守本流の宏池会の長を宮沢喜一から引き継ぎ、政界のプリンスと
言われ、首相候補と目されていた・・
がしかし・・・
有名な「加藤の乱」・・
森内閣の時に野党の不信任案に乗っかって森を潰そうとしたが、執行部の反撃にあい、あえなく失敗し、失脚した。
その後は、秘書や自分自身の賄賂やらお金絡みで、政界を引退した。
やっぱりどこかお坊ちゃん的なところがあったよね・・
ご冥福をお祈りします・・
◆加藤紘一氏死去…官房長官、自民幹事長など歴任
官房長官、自民党幹事長などを歴任した元自民党衆院議員の加藤紘一(かとう・こういち)氏が9日午後0時45分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。77歳だった。
自宅は山形県鶴岡市大東町17の23。
加藤氏は1964年に東大法学部を卒業。外務官僚を経て、72年衆院選で旧山形2区から初当選し、13回の当選を重ねた。
党内で有力な首相候補の一人と目されてきたが、2000年11月に当時の森首相の退陣を求め、野党提出の内閣不信任決議案に同調を試みた「加藤の乱」が失敗に終わったことで失脚。02年4月には、元事務所代表の脱税事件や自らの政治資金流用疑惑の責任を取って議員辞職した。03年11月の衆院選で返り咲きを果たし、自民党に復帰したが、要職に就くことはなかった。
(出典:読売新聞)
◆加内閣官房長官、自民党幹事長などを務めた元衆院議員の加藤紘一(かとう・こういち)さんが9日午後0時45分、肺炎のため都内で死去した。77歳だった。葬儀などは未定。自宅は山形県鶴岡市大東町17の23。
外務省を経て1972年の衆院選旧山形2区で初当選。当選13回。中曽根内閣で防衛庁長官、宮沢内閣で官房長官などを歴任。橋本政権で自民党幹事長も務めた。当選同期の小泉純一郎、山崎拓の両氏とは盟友で、「YKK」と称された。98年、「保守本流」の流れをくむ宏池会の会長を宮沢喜一元首相から引き継ぎ、首相候補と目された。
2000年11月の「加藤の乱」では、野党提出の森喜朗内閣に対する不信任案に同調する構えを見せたが、執行部から切り崩しにあい失敗。派閥も分裂し、総裁候補としては失脚した。12年12月衆院選で敗れ、政界を引退した。藤紘一・元自民党幹事長が死去 00年に「加藤の乱」(出典:朝日新聞デジタル)
◆加藤紘一氏死去、77歳=官房長官、自民幹事長を歴任
官房長官や自民党幹事長を歴任し、一時は首相候補と目された加藤紘一(かとう・こういち)元衆院議員が9日午後0時45分、肺炎のため死去した。
7歳だった。山形県出身。
東大卒業後、外務省に入省。1972年の衆院選で旧山形2区から初当選した。大平派(宏池会、現岸田派)に所属。大平正芳元首相の薫陶を受け、「宏池会のプリンス」と期待された。
中曽根内閣で防衛庁長官として初入閣。91年、小泉純一郎元首相、山崎拓元党副総裁との間で「YKK」と称された盟友関係を結び、党内を牛耳っていた最大派閥の竹下派(経世会)に対抗した。
宮沢政権で官房長官、橋本政権で党幹事長に起用された。98年に宮沢喜一元首相から宏池会会長を引き継ぎ、政界ではこの時期、首相に最も近い人物と見られていた。
小渕恵三元首相が進めた自由、公明両党との3党連立政権に異を唱え、99年の自民党総裁選で山崎氏とともに小渕氏に挑んだが敗北。総裁選後は冷遇され、反主流派に転じた。
2000年11月、森政権の倒閣を図った「加藤の乱」が失敗。02年、自身の元事務所代表の脱税事件で責任を問われて派閥会長を辞任し、自民党を離党。その後、議員辞職に追い込まれた。
03年衆院選で再起を果たし、自民党に復党したが、14選を目指した12年衆院選で落選し、政界を引退。14年5月には共産党機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで、安倍政権による集団的自衛権の行使容認を批判していた。 (出典:時事通信)