刃物の本を切り刻み、カメラの本を写真に残し、ひろゆきの本を論破する

 

はろー!

(このメンツのオムニバス、豪華だね~)

 

1年以内に手に入れたい物リストを作った。1行日記も書いてるから1年後に見返せる。楽しみだ。

 

昔、携帯電話への憧れが半端じゃなかった。初めて持ったのは中学1年の時だったと思う。当時はそれでも早い方だった。

 

送信は勿論、受信にも5円とか料金が発生した時代だ。迷惑メールはまさに迷惑だったわけで、電話などしようものなら親から野党レベルのヤジが飛んでくる。

 

ワン切り(ワンコって言ってる地域もあったな)はここから生まれたのだろう。

 

折りたたみ式は最先端で、家庭事情とイケてる具合の指標となった。

 

非通知で電話が鳴ると誰かが自分を嫌っている文化があった。いま考えると意味不明だが、思春期はそれなりに気にしていたものだ。

 

当然、愛の告白もメールで行われるようになり、恥ずかしながら私も経験者である。送信後、返信がくるまで家をうろうろするという奇怪な行動に出るが、そんな手法は誕生したばかりだ。親には分からない。

 

今でこそ文面で告白などもっての他だが、それは現代を生きる者の価値観である。ぼくはそもそも告白なんかするな派だ。

 

さいきん感動して涙を流しましたでしょうか?

 

ぼくはよく泣きます。カンタンです。

 

まずオッサンになります。そして酔っぱらいましょう。なんとか家に辿りついてから「色即じぇねれいしょん」あたりをアマゾンプライムで鑑賞しましょう。はい、泣きます。

 

ぼく位になると予告だけで泣けますので、本編1本を観る必要もありません。序盤の「行かへん?旅!」でハンカチーフが欲しいほどです。

 

青春と夏。

 

ぼくの涙腺はこの2つで崩壊するらしく、片手に携えたウイスキーの氷が溶けて薄まり、何度も重ねた夜が過ぎていく。ぺらぺらの真夜中がブ厚くなっていく。

 

臼田あさ美、というかオリーブが可愛くて可愛くて、”若さ”はなぜ2択を間違えるのか!そしてそれはなぜ”必ず”なのか!と拳を握る。

 

「音楽はな、武器や」を放ったのが岸田だからなのか、みうらじゅんの手腕なのか。いずれにしても青春をナメてるやつは大したことないですね。

 

青春には恋が付きまとう。(バンド始めた頃オリーブみたいなお姉ちゃん居たわぁ~!憧れてたわぁ~!ヒゲゴジラみたいなお兄ちゃんも居たわぁ~!)

 

恋とは言ってみれば生存本能そのものなのだが、どうせなら数万年前まで遡ってみよう。

 

ほぼおサルさんだった我々の先祖は”恋愛感情”を持っていたのだろうか。

 

少なくとも”心”はあったのではないか、というのが現在の見解だ。なぜなら猿にも”助ける”という行動が見られるからである。

 

2つ部屋を用意する。

 

お互いに行き来は出来ない。目の前にはエサがあるが仕掛けが施されており、道具を使わなければエサにありつくことは出来ない。

 

しかしその必要な道具はそれぞれ”もう一方の部屋にある”という実験だ。

 

受け渡しがギリ可能なだけの穴で部屋は繋がっており、チンパンジーはその道具を交換したのである。

 

ただし、条件として”相手が要求した場合に限る”という興味深い結果となった。

 

隣のチンパンジーが「それよこせ!」と表現しない限り、決して渡すことはない。つまりチンパンジーは「助けることは出来るが、助け合うことはしない」のである。

 

そして片一方がエサにありつけても隣に分け与えることはないし、分けてもらえなかった方が怒ったり、羨むという感情は見られなかった。

 

ここに人類と猿人を分けた決定的な差があるように思う。

 

つまりチンパンジーは「自分は自分、他人は他人」という境界線を明確に線引きしているのではないか。

 

これは人類が到達できていないメンタルだ。自分と誰かを比べる。落ち込む、怒る、妬む。しかしだからこそ人類は「助け合う」ことができるのだ。

 

どちらが優れている、という単純な話ではないのがこの辺りで解ってくる。イチローが将棋で負けても評価には無関係だ。

 

赤ちゃんはなんでも口に入れてしまう。世界共通でそうらしい。その次にとる行動は「誰かに渡す」だ。

 

まだ言葉も話せない赤ちゃんから遊んでた何かを渡された経験あるでしょう?子育てをした人なら毎日だったと思う。

 

それは躾でもなく、親からの教えでもない。本能的行動だ。つまり!人類は「分け与える、助け合うことで生き延びることに成功した種族」という何よりの証明ではないだろうか。

 

ぼくはその名残が”お中元”や”お土産”ではないか、と睨んでいる。(どちらも嫌う私は進化途中かも)

 

猿から人間になったのではない。

猿という種族と人類。

 

人類にも我々ホモサピエンスとその他。特にネアンデルタール人。力の強かったネアンデルタール人が滅び、ホモサピエンスが生き延びたのはなぜか。

 

それは知力の差だ。

 

ぼくは今でも筋力より知力だと思う。ケンカが強いだけのヤンキー。力勝負では負けるだろうが、そいつの人生を終わらせることなど簡単だ。

 

知識は必要な時、求められる時以外は排泄物でしかない。ウンコを投げてるのと一緒だ。アウトプット自体が目的になってしまうとウザいやつになってしまう(ぼくもコレだった)

 

現代人より以前の人類に心や思いやりはあったのか。チンパンジーと区別できるだけの理由はあったのだろうか。

 

結論から言えばそれはよく分かっていないらしい。仮説が何度も覆されている学問、つーかそんなもん分かるか!が大前提だろう。

 

しかし、ネアンデルタール人が暮らしていただろう近くの洞窟からは人骨の化石、そして大量の花粉が見つかった。

 

それは何を意味するのか。

 

これは埋葬をしていたのではないか。花粉は”死んでいった仲間に花を手向けていたのではないか”という仮説が成立するということだ。

 

なんかグッときません?

 

ウホウホ言ってるイメージの野蛮人、少なく見積もっても数万年前、ぼくらホモサピエンスの兄弟にあたる原人が慈しんでいたかもしれない。すでに滅びている。

 

ぼくらは”意味を持たせる”種族だ。「意味ねえじゃん」にはロマンどころか存在理由すら問われる。意味のないことに理由をつけるのがぼくらのやり方なんだ。

 

動物にとって貝は生命維持をする為の手段、エサだ。

 

だから貝殻に用はない。それを拾い、アクセサリーという意味を持たせたのが人類だ。最高の種族だと思う。

 

鏡もない写真もない世界での”おしゃれ”は”誰かに見せる”ものだったはずだ。それは「おれたち仲間だよな」という確認作業だったのかもしれないし、「おれはお前らとは違うんだぜ」という自己アピールだったのかもしれない。

 

事実、真実なんかどうでもいいのだ。

勘違いこそすべてだ。

 

職場に登場したかわいい子に「明日もよろしくお願いします」と帰り際に言われ、「あ、明日も一緒なんだ」とワーイとする。

 

夜勤は深夜2時を回る頃となれば、店には2人きりだ。

 

翌日、周りが「え?」となる初めての化粧をしてきたのは偶然だろうか?それを指摘した際の照れ笑いはたまたまだろうか?

 

言っておく。

 

たまたまだ。

 

だがしかし、「おれのこと好きなんじゃね?」と思い込むのが正解だ。今おまえのテンションが上がるのが正解だ。

 

それが勘違いだったと突きつけられたら新しい歌が生まれるだろう。それだけの話だ。いちいち傷ついて荒れ狂えばよいのだ。

 

下北沢を離れた理由は「違う環境の構築」。居心地の良さは成長を阻害する。中野に移り半年、また悩んだ。下北も中野も既に悩み抜いた。だからまた移る。

 

次は高円寺だ!と騒ぐぼくに相棒が「東中野って手もある」と歩いた。ビビるくらい何もなかった。ひたすら歩いて何もなかった。

 

悩むにも一苦労、必要性がないからだろう。

 

必要なことばかりしてたらドラマは生まれない。恥もかかないけどな。

 

わざわざ間違え。後悔しろ。

 

高円寺がある。

 

東京にある。日本がある。世界がある。地球がある。宇宙がある。銀河がある。その銀河も無数に存在する。その無数が無数に存在してぼくらは生きてる。

 

わはは!

勘違いくらいなんでもないわな

 

ではまた!

 

本日のジョギングBGM

「どうしようかな/村八分cover」