私が本に興味を持ち出したのは20代前半の頃。
学校の日本史や世界史は暗記教育で、時代毎の変革の思想や歴史的な作品を無理やり試験用に
教わったので面白みがなかったからである。
当初は山岡壮八で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でようやく歴史の面白さが実感できた。
結局、学校の歴史は建前だけの試験用暗記教育なのだ。
そこには日本民族の長年培われた歴史感などは、まったく無視されている。
しかし、どうしてこうも無機質な歴史感を子供に植え付けようとしているか不思議。
やはり、いまだに歴史感においては敗戦国にたいするアメリカGHQの思想弾圧が
残っていて、日本の教育現場はお役所仕事そのもので前例がないので変革しようとしない。
そのおかげで、左翼系の先生が時代に取り残されているにも関わらず自分の生活権の保護
の為、無意味な歴史教育をしてると言える。
無知ほど哀れなものはなし。
特に50以上の近代史の歴史感には、多くの大人達はGHQの思想弾圧にそった形で
自己改革もせず、間違った考え方を正しいと思い込んでいる。
NHKが今やたら韓国をもてはやすのも、いい年した大人が歴史の本当の勉強不足
自己改革に乗り遅れた人々に乗っているにすぎない。

現在の一般的な日本の近代史は、殆どが政治家・官僚の都合の良いように捏造されている。
本当の真実を日本国として公表していない。
これが、今の日本の現実なのだ。
明治維新以来の本当の歴史を公表すれば、いかに政治家・官僚・知識人および実業家
と言われている人々が空虚なものか解ってしまう。

一番身近な例は韓国の歴史感及び在日韓国(朝鮮)人の問題であろう。
何か問題があれば差別に名を借りて、まったくの嘘であっても言い分をきいてしまう。
その嘘があたかも真実になり、その嘘に相乗りした進歩的文化人なる聞こえいい名称の
人々が利権にからみ、問題を大きくしている。


少し情報を調べる人であれば
過去の朝鮮併合は、まったく国際社会では問題なし。
朝鮮人の強制連行はなかった。
日本軍の強制による従軍慰安婦はなかった。
竹島は完璧なる日本領土。
など、証拠資料はそろっているのだ!


しかし、教えない・・・・・・
これは日本における歴史感テロとも言える。


南京大虐殺・731のナチスもどきの生体実験のつくり話は
中国共産党の反日宣伝活動なのです。

靖国問題も東京裁判の解釈を国としてはっきり判断せず、他国から利権がらみの脅しに
右往左往しているにすぎない。
今、東京裁判の国際的な認識はこの裁判は戦勝国が一方的に裁いた、違法な裁判で日本は
東京裁判を受け入れたのではなく、その判決を否応なく受け入れたのだ。
特にA級・B級戦犯は当時の戦時国際法にはなく、東京裁判用に作られた名称なのだ!
そして、戦後A級・B級戦犯は恩赦により全て釈放されもう納得できないが一応は償い
は終わっている。

歴史の歪曲はこれに留まらないが、調べだしたらあまりの多さに驚くであろう。
しかも、歪曲内容の殆どが国益に反している事実に何かの圧力を感じずにはおれない。

上記の内容の殆どは日本の学校の歴史教育では受け入れ、試験で違った事を記入すれば
落ちてしまうのが現実。
だから、なんで東大まで出た人がこんな嘘に対して真剣に信じてるのかと言えば
嘘を信じることが、その人の人生感の救いとなってしまってるのです。

だから河野洋平や加藤紘一など大臣にもなった人間が、反日的な事を懺悔のかってな思い
込みの気持ちで行っているのです。
一人でかってにやっているには良いが、国民を巻き込んでいてしかも税金を湯水の如く使い、
その行為が国益になると信じてる事が狂っている事実なのです。

明治維新後の歴史は本やインターネットで真実を自分で追究する。
そして日本人、日本国家の本当のありかたを認識するべきだ。
そして、今迄日本国の為に働いた名も無き英雄たちに感謝しよう。
歴史を再認識すれば、この日本国の過去が人道的にも文化にも、いかに素晴らしかった
かが認識されるであろう。


ここに福沢諭吉先生の金言を記する。

福澤諭吉の「脱亜論」』


現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは
科学技術革命の結果である 蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か
急激な進歩が起こったわけではない。
したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚
悟を固めるだけで充分である。
西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れて
はならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益
だけでなく不利益までも受け入れる他はない。
これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。
近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。
私は防げないと断言する。
百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。
それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのように
して水際で防げるというのだろう。
近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免
疫を与えるのは知識人の義務でさえある。
西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これに
よって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つように
なった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府
がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。
近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。
この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。
なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人た
ちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち
合わせてはいなかったからである。
ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、
皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。
かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れる
ことを決めたのだった。
これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって
脱アジアという意味でもあったのである。
日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。
ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、
もうひとつは朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、
もともと人種的に異なって いるのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国
と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
それでも過去に拘り続ける
シナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育と
いえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を
軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の
場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。
もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上から
の近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の
分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。
なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室
に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。


『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・
朝鮮は日本にとって何の助けに もならないばかりか、この三国が地理的に近い故に
欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。
すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であ
ればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ
国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行
われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけば きりがない。
これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人が
まともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。
実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、
日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。


もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
(明治18年3月16日)

徳川幕府を日本政府に置き換えれば、まったく今と同じ状況だということに驚く。
福沢諭吉を一万円札に使ったのは、この日本でも志のある人間が密かに改革に向かって
いるメーセージとも言えよう。


medaka