ドラマの主人公にするなら本山氏が最も面白い。出自も政策も判らない事が多く、
その上、他の豪族とは根本的にビジネスモデルが異なる。脚色のしがいがある。

もともと何処の誰かも判らない本山氏が目を付けたのが、現在の本山町。
数百年以上、朝廷の管理が届かず、800年経って官道が開けた四国山地の中央部。

吉野川の上流域な為?そもそもは阿波の管理下だった本山を、先ず、もぎ取る。
山奥の谷間。2009年までの5カ年平均で見ても、平均気温は14.2℃、日照は年1645時間。
高知市の17.5℃、日照2170時間とは比るべくも無い。誰がやっても「収益の出ない土地」。

その「空白地帯」で本山氏は100年以上耐えた。耐える事ができた原資は恐らく「流通」。
土佐と瀬戸内海をつなぐ陸路はここしか無い。業者は本山氏の「言い値」を支払う以外、
貿易はできない。東洋町の海賊より本山町の山賊の方が多少要領が良かったのかも知れない。

「企業舎弟」からの収益と情報を蓄えたヤクザはついに長宗我部氏の切り崩しにかかる。
1507年の細川政元暗殺を察知すると、1508年に連合軍を組織し岡豊城を陥落。同じ年、
斉藤道三より10年遅く、今川義元より10年早く、土佐最強の本山茂宗が生まれる。

室町幕府に公認された土佐守護は細川氏。その細川氏の「飼い犬」である長宗我部氏を
排除した本山氏は土佐初の「戦国大名」と定義できるかも知れない。「独立国家」の拡張
を目指す本山氏は一条氏にとって最も怖い存在であった事は間違いないだろう。

阿波と本山の境、大歩危。JRの駅があり特急が停まる。
が、見事に何も無い。駅の前はもう吉野川の渓谷。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-大歩危駅と川

大歩危峡。川下りなど。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-大歩危渓谷

吉野川の流れ。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-吉野川透明度

吉野川の透明度。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-吉野川透明度2

大豊の「日本一の大杉」。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-大杉

「大杉」。別の角度から。写真には納まりきれない。この杉の様に呼吸量を減らし、
動かずにじっとしていれば癌の罹患率も減り1000年くらい生きられる?
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-大杉2

本山氏の本拠、本山町。吉野川の流れにそった猫の額ほどの土地。
「生産拠点」には成り得ない。しかし利用価値の低さ故に攻められる心配が無い「要害」。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-本山吉野川

本山から見た早明浦ダム。街のはずれに巨大なカベがそびえ違和感がある。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-早明浦遠景

渇水で有名な「四国のいのち」早明浦ダム。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-四国のいのち

早明浦ダムの貯水量計画図。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-早明浦貯水量

早明浦ダムの各県配分量。確かに徳島にとっては生命線。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-早明浦4県配分

取水ルート。高知県内にもほんの少しは水が来ている。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-早明浦取水ルート

ダム壁面。貯水量は12月としてはまあまあ?
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-ダム壁面

ダム放水ルート。街中のすぐ横を抜けて吉野川へ。もし決壊したら本山は壊滅?
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-早明浦用水路

本山と大豊の間の道路沿いに咲くさくら?これも12月に咲く種類??
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-本山のさくら

さくら?アップ。違う花かな??、、ま、名前なんか何だっていいか、、。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-本山のさくら2

1520年代:本山氏は朝倉から仁淀川左岸までの平野に進出を果たす。領地を護るだけの
     「平たい」レースだと最下位なはずの本山氏がトップに立つ不思議さが興味深い。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-仁淀川伊野

浦戸の海。
1540年代:吉良氏を倒した頃には早明浦ダムから桂浜までを制圧する最大勢力を達成する。
     この頃、長宗我部氏は対岸の種崎に勢力を張っている。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-浦戸本山氏

1560年:本山茂宗病死。長宗我部氏が本山氏に対し挙兵。
1564年:親茂は長宗我部氏に臣従。

本山氏にとっても、また一条氏にとっても最大の誤算は「子犬」だと思っていた
長宗我部国親が「2人目の戦国大名」として質的に変化した事かも知れない。

桂浜といえば何故か「坂本龍馬」だが歴史的には浦戸城があった場所。もしかすると
土佐の郷士達にとって戦国大名たる本山氏や長宗我部氏が覇を競った浦戸は、見かけ
だけ立派で中身が空っぽな高知城より遥かに重みのある「聖地」だったのかも知れない。