高知大病院前が岡豊(おこう)城址。長宗我部氏の居城にして土佐の歴史の中心。
国分川沿いに位置し、物流、守備、水利に優れ、かつ穀倉地帯を見下ろす天然の要塞。
病院にしておくには惜しい程の優れた立地条件。登り口は反対側でかなり遠い。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-岡豊城1

病院経由で1日に数本「歴史民族資料館行き」のバスがある。が、3月頃まで休館中?
歴民奥の階段を昇りつめた先が本丸址。標高97m。ここまでも相当の坂。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-歴史民族

二の段から物部川沿いの耕作地を眺めた景色。旧国府跡や国分寺を見下ろす。
長宗我部国親ー元親の2代を見ずに土佐の歴史は理解できないだろう、、。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-二の段

二の段の案内板。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-東方面

・1504年:長宗我部国親 生まれる。
・1508年:父の兼序、本山氏、山田氏、大平氏連合軍に攻められ、岡豊城で自害。
      国親5歳?は落ち延びて(幡多に来て約30年になる)一条氏に養育される。
・1518年:国親15歳?一条氏の仲介で父の仇である本山茂宗と和睦。岡豊城に復帰。
      独自の徴用制度「一領具足」を発足。この階層が後に「郷士」化してゆく?
・1539年:長宗我部元親、岡豊城で生まれる。国親36歳。

面白いのは一条氏の動き。もちろん動機は「親切」でも「徳」でも無い。長宗我部氏の
5歳の遺児を掠め取り、絶対に消えない「15歳の火種」を都左のど真ん中に戻した。

伊予と都左に挟まれた一条氏としては、土佐中心部に傀儡政権を持ちたいところであるし、
最低でも、本山氏や安芸氏に一本化されるのだけは避けたい。公家大名として他の小豪族
同士を争わせ優位を維持しようとの政策であろう。いかにも公家らしい手法とも言える。

本丸と二の段の間の堀切と井戸。井戸は2m×2mくらいで深さは3m程度だったらしい。
水が湧くタイプでは無く「溜め池」だったとの事。私も結構探したが、これ以外に井戸
らしい窪みは無く、桶など含めても最大貯水量は20t以下という感じか、、、。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-堀切井戸

仮に300人で籠城した場合1L/人・日で頑張っても2ヶ月が限界?
スペースも300平方mの広場が2つあるぐらい。物資や武器の備蓄も限界があり、
3000人くらいに囲まれ兵糧を断ち切られると「1ヶ月程度」といった印象。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-詰め

「詰め」案内板。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-詰め案内板

本丸から国分川の眺め。3カ国に同盟されるとさすがに厳しかったであろう、、。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-詰め景色

「から堀」の説明図。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-から堀案内板

攻め手は弓矢や投石の雨の中、戸板をかかえて「ダッシュ!」。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-から堀

「虎口」。汚物や瓦礫の中、投石や矢を浴びせられながら「登り坂ダッシュ!」。最悪。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-虎口

「竪堀」。斜面に畑の畝状に溝を堀り敵の進行ルートを制限。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-竪堀

1列縦隊で進まざるを得ず、守備側からのV字砲火を受ける。殆ど罰ゲーム。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-竪堀の様子

・1547年:国親44歳。一条氏の支城である大津城を攻める。
・1560年:国親57歳。本山茂宗が病死し、女婿の茂辰が後を継ぐと本山氏を討つべく挙兵。
      浦戸城攻略後に病死。享年57。嫡男元親が家督を継ぎ、本山茂辰と戦い続ける。
・1568年:元親30歳。本山氏を滅ぼす。
・1569年:安芸氏を滅ぼす。
・1575年:元親37歳。四万十川の戦いで一条氏を撃破。土佐統一。

イラン革命で中東が面倒になった時、米国はフセインを造った。
一条氏が土佐で育てた「フセイン」は予選リーグを勝ち抜いてしまう。
土佐の国力を集中し20年かけて「公家支配」を完全に排除する。
もしもフセインが中東の統一に成功していれば、これに近い事が起こったかも知れない?

などと考えつつ川側の裏道を歩いて下る。降りた所に民家と標識。低く見えるが
本丸まではマンションの30階相当の高さがあるので歩いて登るのはお勧めしない。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-岡豊城川登り口

病院への帰り道「四国みち」に指定されている。土佐一宮方面への道でもある。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-帰り道

写真左端が高知大病院、右端が岡豊城本丸址。
転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ-岡豊城病院

土佐統一後、長宗我部元親は織田信長と同盟?この辺りから中央の歴史に吸収されていく。
・1580年:阿波、讃岐をほぼ制圧。
・1580年:信長は元親の四国征服がやっぱり気に入らなくなり、敵対関係になる。
・1582年:本能寺の変。命拾いする。
・1585年:元親47歳。四国全土をほぼ統一。

その後、豊臣秀吉に土佐一国に封じられる。
・1588年:大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移すが治水の悪さから再び岡豊を本拠とする。
・1591年:浦戸城を築き、岡豊城は廃城。

関ヶ原の後、山内一豊が土佐24万2千石?を与えられる。
・1601年:浦戸城に入る。大高坂山に本丸の造営と鏡川・江の口川の治水工事に着手。
      その際、浦戸城の石垣を高知城にリサイクル。
・1603年:本丸と二の丸が完成。山内一豊入城。

1500年頃、土佐全域でも4~5万貫(=10万石弱?)だった石高は100年が経過し
約20万石と評価されている。計算方法や林業、漁業、商業収入の増加もあるとは
思うが、税収の自然増に加え、長宗我部氏による阿波や讃岐からの利益誘導が伺える?