1980年6月「哀愁でいと」でデビューしたトシちゃんこと、田原俊彦。彼は同曲で自身最大となる72万枚以上のヒットを飛ばした。そして、オリコン初登場2位の史上初の記録を残した。また、同年の日本レコード大賞では自身2番目の売り上げとなった「ハッとして!Good」でジャニーズ勢初のレコード大賞最優秀新人賞、1984年には「さらば・・・夏」で日本歌謡大賞、TBS系「ザ・ベストテン」では最多ランクインの記録を持ち、1988年にはこれまたジャニーズ勢初のベストテン年間1位を成し遂げた。しかも、シングル総売上は1200万枚以上に及ぶ彼のスターっぷりはあまり語り継がれる事は少ない。その理由として避けて通れないのは1994年の長女出産会見での「BIG発言」、ジャニーズ事務所退社などが最もであろう。確かに、その頃からメディア出演は大幅に減ったと言える。だが、あのレベルのスターとなれば、多少マスコミに叩かれようが、そのまま芸能界の頂点とは言わずとも、レギュラー番組0本になる事は回避できたのでは無いだろうか。彼は「仕事をセーブしたかった」という趣旨の発言もし、度々言い訳だの潔く無いなどの声があったように思う。しかし、冷静に考えてみてほしい。子供が出来たのに関わらず、芸能界で活躍する人も多いが、それは「子供く仕事」の考えなのである。それに対して長女出産のタイミングで芸能界から「干された」形ではあるが、身を引いた田原俊彦は「仕事く子供」の形をとったといえよう。つまり、彼の仕事のセーブは彼自身の考えだったのでは無いか、と身に染みて思う訳である。勿論、ジャニーズ事務所の中、社会の中でも自己の名誉を家庭より優先させる者も多い。特にジャニーズ事務所はその度が激しい。田原と同期の近藤真彦の例で言うと、1987年、紅白歌合戦の視聴率低迷より、ジャニーズ枠が1枠になった。その時に各週刊誌で大きく報道されたのが、近藤がメリーと寝た事だ。しかし、ジャニーズ事務所の圧力は強く、その報道も大きく取り上げられる事は徐々に少なくなり、今日はほぼ無かった事のようになっている。次期ジャニーズ事務所社長に直々に指名されたタッキーこと滝沢なんちゃらもその例としては不適では無いであろう。その分、田原の生き様というのは至極真っ当であり、田原の性格をよく理解するファン、通称「ファミリー」は現在も田原の全国数十カ所を巡る40周年ツアーを行う上で非常に大切な存在であろう。
- 前ページ
- 次ページ