ちょっと前にキングコング西野という人の「えんとつ町のプペル 無料公開」炎上事件というのがあって、
もうとっくに鎮火したと思ったら、この春の風にあおられてまだ火種がくすぶっているようです。

 

 

キングコング西野の件は「炎上」では足りない

↑【趣旨】↑
「クリエイター達が西野に抗議したいのは、
無料モデルという、もはや目新しくない試み、に対してではない、
知名度を利用したことでもない、
クラウドファンディングで出資を募ったことでもない、
出資やチームで出来た作品なのに自分ひとりの考えで無料化したことでもない。
まっとうに仕事をしている人のまっとうな仕事ぶりとその報酬を「金の奴隷」「糞ダセー」と見下したことだ」

とか、


キンコン西野は「ただただゲスいね」 「明坂聡美攻撃」をヤマカンが斬る
↑【趣旨】↑
「いさぎよく“プロモーションのために無料にします”と開き直ればいいのに、小学生に買わせるための美談にしたり、年下の女性声優を名指しであげつらうとは、ゲスい」

 


と、いろんな人のいろんな抗議が波紋を呼び、それを読んだ人々がまだ考え続けているという。


そうかと思えばホリエモンのように、
「音楽じゃ とうに終わった論争を出版ではまだやっている」
と、呆れ川柳のようなものを投げてくる人も。

 


↓またこんなこともあると、西野君トークにけむに巻かれた気持になったりします。
キンコン西野とJASRACの癒着

 



さて、私がこの論争で特によくわからないなと思ったのは、

 

クリエイターは、自分で作品を作ることでしか、自分の名を売ることはできない。作品しか武器がないのだ。だからそうした本来の創作業界で生きる人の正当なやり方を、「糞ダセー」とか「お金の奴隷」という言葉で、なにかを操作しようとした西野を、ゆるせない。

 

とおっしゃる人々の論調、
 

の、本来とか、正当とか、まっとうなクリエイターそのものの定義って何?ということ。
(おそらく全世界でここ百年以内に扱われるようになったのであろう)クリエイターの権利って、そもそも何なんだ? 


ちなみに、自分はクリエイターだとしてもそうではないとしても、
この時代の賜物である無料の写真アプリや、動画アプリや、音楽アプリの恩恵に、無邪気にあずかり、それらを駆使して作った、自分や会社の作品を、SNSで無料で宣伝し販売している・・


・・という十数年の状況を考えるに、「正当」とか「本来」とか「正しい」とか、その報酬や領分や境界を、自分自身があやふやにし、プロとアマの境目(が、もしまだあるならば、)侵してしまっています。


しかも、売っています。「作品しか武器がない」不器用な作家の、偉大な世界を、「人々の心が平和になる美術館を建てたい」なんていう目標の資金稼ぎのために、
ある意味でキンコン西野君よりも開き直った分業制で、彼女の作品世界を売っております。
マルポン良品

 

でもこれって全部本気ですから!膨大な年月と労力をかけて開発した商品は、全部が熱い心の産物ですから!なんて言って、傍から見れば、りっぱなポジショントーク。

 

 

でも、もう一度言うけれど、
「本来」の「創作業界」で生きている人の「正当な」「やり方」や「権利」とは、なに?

 

誰もが、ひと昔前までは考えられなかったものを、誰もが自由に無限に作れるようになったこの時代の潮流にたゆたいながら、「これだけはクリエイターとして(未来まで?)保障してほしい権利」があるのだろうか。そんな救命具が。

 

いまの若い人にはわからない話かもしれないけれど、私たちは90年代後半~2000年前後に、ITを使いこなせなかった大勢の年配クリエイターを横目に、ここまで歩いてきています。
 

泣きながら電話してきたデザイナーさんもいた、くにに帰ったカメラマンもいた。

「パソコンなんかでデジタル仕事をそんな価格でするなんて、まっとうなやり方ではない。今に出版界はめちゃめちゃになる」と口角泡を飛ばすイラストレーターさんも、いた。

 

でも、一方でそんな時代遅れのロートルに値する報酬はないのだと、キンコン西野君よりひどい言葉で切り捨てた編集者もいた。

 

と・・こんな話はナンセンスかな、

キンコン西野論争と、どこがリンクするんだ? 話の次元が違う? と思う若い方も多いでしょう。

 

 

私の言いたいのは、

新しい時代のたくさんの人々が、もう守る必要を感じることができないものを、

「守れ、昔の時代からずっと守ってきたものなんだから」と固執しているとしたら、痛ましいということ。「権利」という概念が確かだと思い込むこと。

 

一方で、本当に、(本当ってなんでしょうね)力のあるものは残るのだから、そこに自分が入らないなら、受け入れるということ。受け入れるにはいろんな方法があって、自分を売り直すこともできる。うらみ悲しむ必要はないということ。

 

そういう意味で(やっと本題ですが)、100万部をめざすという『えんとつ町のプペル』が、「本物」なのかと、考えてみますと・・・

 

 


( ;∀;)

 

 

 

たとえば、「本当に」100万部売れたこういう絵本たちを並べてみる。

 

 

 

絵本じゃないけど・・・

 


漫画だけど・・・。お約束のフリだけど・・

 

海外ものなら・・・

 

 

御冥福をお祈りして・・

 


こういう、本当に100万部、いやXXXXX万部売れた、たぶん「本物」の、

共通点は、どれも「100万部以上売ろう」という所からはスタートしていないこと。

「売ろう」どころか、「読者を喜ばせよう」とも、思っていなかったこと。

 

ただ「描きたい」「書きたい」としか思っていなかったこと。

だから、ねこは永遠の命を得たし、
コロボックルは大人のポケットにもまだ入っているし、
チッチは・・(省略)、
丸いぼくはどこまでも転がれるし、

口がばってんのうさぎさんは人類の人口と寿命を伸ばしたんじゃないかな、

 

 

比べてはいけないし申し訳ないし、私見主観たっぷりだし、なんて私はいじわるなんだって思うけれど、

 

 

 

 

ものすごく西野君という人を応援したい気持ちで読み始めたら、最初の5行で愕然としてしまった。こ、これは、

 

当てに行こうとして書かれた作品だあ。
売ろうとして書かれた作品のキャラクターには、どうしたって、いのちが宿らない。

プペルも***も(相方キャラクター、3回読んだけれど思い出せない)、セリフを言わされているし、動かされてしまっている。


絵本ってこんな感じでしょう?と思って大人がつくったらこうなりました、っていう、すごい見本だなと。

はい、私見と主観とたっぷりです。


それでも絵はすばらしいと思ったのです。
ゴッホの夜のカフェテラス(だっけ)みたいな夜景絵画が好きなので、もう何杯でもごはんがお代わりできそうな風景です。
 

でも、なぜストーリーに、せめて、

ピース又吉さん、中村文則さん、西加奈子さん、本谷有希子さん、辻村深月さん、青山七恵さん、川上未映子さん、いや弘美さんもいい、角田光代さん、江國香織さん、道尾秀介さん、町田康さん、堀江敏幸さん、奥泉光さん、辺見庸さん、どうせなら村上春樹さん・・
 

とにかくそういう「当てにいかない作品の作り方」を知っている人を、物語づくりの布陣に加えなかったんだろう。

 

結局、皆さんの怒りやご抗議の根底にあるのはそういう(この絵本、まじで生きてない)、のような所である気がするし、しかし知的な人ほど「そんな直感的なことで怒るなんてばかみたい」とか「でも若い子達はいいと言っている、もしかして自分の感性が終わってるのか」と思って、そんなことは言えず、よけいにイライラするのではないかと思う。
 

しかしこれだけ純、とか本物、ではないと思うのに100万部も売れたら、やっぱりプロデューサーとして素晴らしいではないか。

 

同時に、これだけ、キャラクターが生きていない絵本を作ってしまった人に憤っていたなら、その分だけ時間がもったいない。


だけど、私は、「後悔する予感」に期待しています。
 

誰よりも、何倍も努力し、勉強し、サービス心も、勘もいい西野くんが、いつか「本物」の作品をつくる日が来るのではないかということ。

 

不安や憤りや憎しみを抱えて彼を攻撃しているエネルギーの何倍も、彼は「純」に近づいていくんじゃないかということなのです。