こちら、先日読んで、すごいなあ・・・って二度よみしてしまった作品です。あたらしすぎてびっくりした。

N先生の小説教室課題本だけども、講義に出席できなかったので忘備録。(長いです)

金毘羅 (河出文庫)/河出書房新社


「私は、金毘羅になった!」
1956年嵐の夜、人の子の体を借りて、深海から陸に移り住んだ私=「金毘羅」。失った過去の記憶が甦る時、近代が封印した、魂の歴史と祈りの本質がついに開かれる。21世紀いまだ解決されざる内面の神話に挑戦した、超絶怒濤の世界文学。第16回伊藤整文学賞受賞作品。


という。

これじゃ何のことだか。そもそも笙野頼子って誰? 金毘羅って何? という方に。
ネットめぐりでホットなものを見つけてみました。

たとえばマニア読者の論↓
笙野頼子の大傑作『金比羅』の凄さは伝わるか(村田 豪 )


たとえばアマゾンレビュー↓
「新生笙野文学!」

川上弘美さんは
「誰にも真似できない。誰もこの世界を書くことはできない。笙野頼子だけが書くことのできる小説である。きわめて自伝的でありながら、きわめて小説的な小説であるともいえる。ああうまく伝えられない。ともかく、ご一読を。」

という。おおくの小説家や評論家やマニア読者に大傑作!と言われている作品です。
私も個人的にベスト・オブ読書・2015だっっ と感動して、、、
御託をならべるほど作品のすばらしさから離れていくと思いますがとにかく備忘録。


上のアマソンレビュアーは「関節をはずされる」と仰っていますが、まさにそう。
私は「崇高っぽい気持ち」になると、よく頭に流れる「アメージング グレース」という曲がありますが(奴隷船で悪もうけしていたチンピラ船長が大嵐に遭って後、牧師に転身してつくった曲)

「誰かが海で遭難する時、溺れる時、もしもその人が「助かる運命」なら。海からは灯が見えるものなのです」

だって。

冒頭から、いきなり、はしごを外されました。そうか、うすぼんやりした自己陶酔とか、ごまかしはゆるされない小説なのだな・・・。その後もはしごを外されっぱなしです。

たとえば、皇祖系、国家の神さまもこのようにばっさり。ああ、お伊勢さん・・・・・・
そして、今はやりの「スピなことを科学とか医学で保障すること」もばっさり。




(以下◆部分=引用  …部分 ()部分=ハヤカワによる略、註)

◆「だってそもそも「わしら」の稲の神ってどこにいるそんなの「政府」の税の神じゃないか。しかし人民はそんな「政府」を「わしら」と思っていたのかしら。きっと自分達の神は滅ぼされてもうなかったのよね」

◆神事の名のもとに行われるオカルト的行事、男女平等を装いながら実は女を小馬鹿にする事で成立しているような戦後の建前主義国家、国家宗教≒伊勢の否定、農耕文化によって蓄財した結果「所有」という悩みが複雑化した庶民の「金集め人気取り」のために仏道へと接近していった「神道」、

◆(戦後には「数字」教まで「習合」し・・・)「粒子による治療」「電磁波のヒーリング」「地球にはありえない鉱石の宝珠」そう、全部物質です。一見理系です。…「祈りの化学」
…文章に、教理に、論文に数字さえ入ってれば、愚民はそれを信じる。…それは「理系」であり「男」である。

◆「戦前、ただ一種類だった愚民は、二種類に分かれた。ひとつは国家的迷信に洗脳された愚民、もうひとつはその国家的迷信を信じ抜いている普通の愚民を冷笑し、しかしなぜ信じているかという事を解析する能力はなく、ただ自分たちは違うとひたすら思い込んで、そして贋数字科学の世界に逃げ込んでいる腑抜け的愚民」

◆(神話として残っている強い政府の神以外の、庶民にとっての習合神、たとえば権現は)その実体は、仏の着ぐるみきた例えば縄文の神です。

◆新興宗教にはまってトランス状態になる人々の「霊的期待感」

◆怨念も負けた神様も外来のハイブリッド神になってやり直すってこと。こうやって出雲神やら縄文太陽神やら或いは権力争いに負けてマイナー化し、結局単なる害獣に降格されてしまった動物神達もお忍びでけっこうな数故郷に帰ってたりします。

◆負けた神は誰かを守ろうとする。

◆ビリケンだって一種金毘羅です。




とか。引用しすぎかしら。でも、こんな抜粋ではぜんぜん伝わらない、いちいちいちいち痛快な作品です。

けれども、あくまで、「死んだ女の子に宿った」野生の金比羅=さまざまなマイナーローカルの神と合体したハイブリッドな「金毘羅」さんがわめいておられる、フィクション(私小説では、ない)です!


そう。私小説ではないけど「主人公」=「私」が、かなりアスペルガー的性質が濃いんじゃないかと思われることは、(作品の本質的な解釈にかかわることではないが)この平易ではない小説の読み方の補助器具になりました。

自閉っ子、こういう風にできてます!/花風社

↑才能あるアスペ作家たちのなりたちや世界観がちょっとわかる本


「主人公」の「私」は育ちづらく、家族もやりづらかっただろうナ・・と、
そういう性質かなとぼんやり念頭に置いて読めば、同じことが何度も繰り返される強迫的な記述も、擬人化的描写も、現実と幻覚との同化も、奇妙な身体感覚なども、あんまり深読みしすぎずにすむ。し、

そして何より作品としての「こじつけ」や「妄想」や「ご都合理論」を、すなおに楽しく、チャーミングだと思って、読めました。

女子をこじらせて/ポット出版

だって、女子だもん!!: 雨宮まみ対談集/ポット出版


ブス論、ジェンダー論、野党論。それらの「習合」論としてもよかった。
↑こういう、こじらせ女性作家たちの論を思い出して、よけいおもしろかったです。

すぐれた小説を書くことは総合格闘技だし、読むことも総合格闘技だなあ、と思ったことでした。



ものがたりの最後はこう結ばれます。

「金毘羅になって何か良かったことがあるのでしょうか。----私はなぜ自分がここにいるのか判るようになった。なぜ自分が生きにくいのか判るようになった。----インドの仏法守護神クンビーラ及び、彼と習合した全ての野山の小さい、或いは古い滅んだ神々に、--。感謝します、と。」

まったく、すばらしい。愛というか、祈りというか・・習合しきったっ




ここから個人的なことですが、
自分の脳の一部には、生まれつき正常でない活動がみられ、強迫的な言語や議論との格闘があったり、ある概念の把握において「ノーギア」状態であったりすること・・特定の分野の言い方では「ナントカショーガイ」とか言うらしいけど、ようするに現代の社会では傍流のDNAであって、それってどこかの狩猟か遊牧民族の名残じゃないの、け-っけっけ(金比羅ふう)。

と、読み手自身の妄想まで自由に大きくし、妄想を「仮説」化してくれるような作品でもあった。


ひいては、アホみたいにイベリア系ケルト(フラメンコも)に惹かれることと、そのイベリア系ケルトが滅ぼして「習合」したBC5000~3000年頃の人々…がもっていた「大地母神系」の神話が、日本の古事記や日本書紀より「ふるい」時代のことと共通点がたくさんあることは、関連してるのかしら。

とか、

その征服者イベリア系ケルトをも飲み込んで、「習合」したケルト系キリスト教に、ただならぬ感情をもってしまうのは、『金毘羅』の「私」が「野生の金毘羅」になっていく過程とすこし似ているのかしら。とか、

そんなことも考えさせ、意識のレイヤーを変えてくれる小説でした。

ゆうたら、「自分のルーツの組み立て方」をルーツ自身が教えてくれる小説。という。あたらしすぎるよね・・・


私は、主人公「私」のようにすぐれた頭脳を持っていないので、上のような仮説を統合できないまま死んでいくかもしれないけど、こんなのを読むことができて、生きててよかった・・・。

「金毘羅」の「私」が魂をふりしぼって書いてくれよかった。これってきっと、「小説」にしかできない仕事ではないかと思う。書き手に、心から感謝したい。ありがとうございます。って思ったほんとうにいい小説でした。