今月は、仕事資料以上についつい読んでしまったのが、「現代のベートーベン様」関連の記事でした。


この激情型で思い込みの激しい、佐村河内氏という人は、恐らく演技性人格障害と自己愛性人格障害と、それらのベースとなる脳発達障害を併せもっているんじゃないかと思います。脳のSPECT画像でも撮ったほうがいいのでは。
一方、新垣さんという人は、話し方や挙動から、ある種のアスペルガー気質をおもちではないかと思います。職人型作家さんに多い気質。

と勝手に素人考えを言ってますが、いらっしゃいますよね。こういう相性の2人。
組み合わさったとき、支配(管理/干渉)⇔被支配(隷属/依存)になってしまう相性。出版界や芸能界にこういうコンビはけっこう多い。音楽界にも多そう。というか世間でけっこう多いタイプの仕事ペアじゃないですか? しかしこんなに不平等で歪んだ関係はない。普通は瞬時に破綻しそうです。




ベートーベンは懇願、恫喝、恐怖で屈服させながら、一方で礼賛、尊重して見せて心を掴むことが巧みだった。新垣さんはその動作や弁舌に魅了され、「プロデューサー」として慕った蜜月の時期もあったはず。

それがやがて憎しみに変化しようとも、新垣さんには相当の強い呪縛がかかっていたはずで、どうやってそこから抜け出されたのか、一人の人間の心の転換として、非常に興味深いです。

昨年新潮45に疑惑記事を書かれたからか。義手のヴァイオリニストみっくん(ベートーベンに強引に弟子にされていた)の相談に耐えきれなくなったからか。強いマインドリセッター(脱洗脳家)の存在があったのか。



交響曲第一番 闇の中の小さな光 (幻冬舎文庫)/幻冬舎



この「自叙伝」も、大半が、作り事であるということで、「小説」という視点で読んでみました。

すると『プロローグーー音を喪くした日』から、かっとばされております。

幻想的な夢を見るシーンから始まるのですが、

(以下太字=本文抜粋)
私は夜の砂浜にひとり、膝を抱えて……
(以下……部分=本文省略)流れのはやい雲にいく度もさえぎられては現れる青白い月の姿と、規則正しく打ち寄せる波の音……そのとき、何者かが私の両足をつかみ、海底へと引きずりこんだ……
もがき苦しみながら、抗うたびにあがる大きな水しぶき……ゆっくりと海に沈みゆく私が目にしたのは……不思議と恐怖は感じませんでした、むしろ神秘的な闇のきらめきに陶酔感すらおぼえながら……


なんとも抒情的ですよね。この夢から醒めたベートーベン(もうベートーベンに重ねるのも失礼なので以下、ベンと略させていただきます)は、「バカげた夢を見たものだ……自分を冷笑し」ながら、突然気づきます。

「私の周りからすべての「音」が消え失せていたのです」

焦ったベンは、廊下で何度も横転しながら、<音楽室>へ向かい、深呼吸してから思いきり鍵盤をたたきます。

「何も聞こえないーー」

「呪い責めるように私は両手で耳をたたきながら、「おい……おい! おい!!」と、本能的に大きな声をあげて部屋中を徘徊していました。壁に何度も頭を打ちつけ、うずくまっては床に額を打ちすえ……一九九九年二月、三十五歳のとき、私は「全聾」になりました」




壮絶すぎる。ベン。聾になる過程が激しすぎる。

このあと放心状態のベンは、窓外の夕焼けを眺めますが、足もとには「血液と失禁した尿が混じり合った」水たまりができ、なぜかズボンの右膝が破れ骨が露出しています。骨??? 理由は語られず唐突です。

もしかして、あの脚を引きずって杖をつくスタイルへのエクスキューズの一種でしょうか。

偏頭痛、耳鳴り、全聾、頭鳴症発作、左指機能不全、抑うつ神経症・・・という恐ろしい症状が次々起こることによって、ピアノも弾けず譜面も読めぬ心身になっていくことが用意周到にエクスキューズされてゆくのですが、

こんな架空の描写を仕上げる(これこそゴーストライターが構成したとしても)頭の良さと、創作力は素直にすごいと思います。

しかし、しょっぱなからベンは幾つかの計算ミスと、大きな不穏を「小説の読者」に投げかけます。

「耳が聞こえなくなるって、本当にこういう描写になるのかしら。なんだかディテイルが・・・」

派手すぎ。出来すぎ。盛りすぎ。

*自分は小学生の時、あるアホな出来事で左の鼓膜が全壊し、一時的に重度の難聴になりましたが(鼓膜はまた生えた)、しばらくはうまく喋れませんでしたし、そもそも急に音が聞こえなくなったら、こんなにアクティブに動けないような・・・。「廊下を何度も横転」って。

ですから、全聾というシニフィアンと、実際耳の聞こえない状態というシニフィエにおいて、素人でも不信感たっぷりになるような乖離が見られるのです。

全般にそうした乖離だらけ。辻褄あわせを主目的として書かれたからだと思います。

幼少のスパルタ音楽教育は新垣さんのエピソードであるらしいし、不機嫌でエキセントリックで級友に嫌われた高校時代は、発作を我慢しつづけたことになっている。音大に行かなかったのはストイックにクラシック音楽を追求するため。そして施設の子供たちに救われ、愛し愛するようになった過程のアピール---。

もうね、ほんとうに創作の勉強になります。
辻褄ばかり合わせようとすると、小説ってどんどん気持ち悪くなってゆくのですね。もしこれが文学賞に応募された原稿だったら、「上手いけど、ザ・上手いですって感じで破綻をなくそうとしているのがかえって欠点」なんて言われて一次審査しか通らないんじゃないでしょうか。(このあいだワタシが編集者に言わレマシタヨ(+_+))


なんといってもドラマティックすぎる。全聾になった衝撃シーンを「100ベン」とすると、この小説では、10ベンなみの出来事が100個、100ベンなみの事が10個以上起こる。

のたうち回って失禁しながら汚物と血反吐をはいてヨダレを垂らして壁に頭をゴンゴン打ちつけて失神・・・全編がそんなです。


しかし、この人は、いつしか本当の自分と、妄想の自分の区別が次第につかなくなっていったのではないかなあ。

恐ろしい精神症状の数々も、半分くらいは本当かもしれない。
自らの妄想と欺瞞と恐れと不遜のストレスのあまりヒステリー症状やパニック障害にみまわれることもあったんじゃないだろうか。メニエール性の難聴とか。





本書は、講談社の編集者から「あなたには、音楽以外にも伝えるべきものがある!」とアプローチしてきたそうです。その編集者が、TV関係者に「すごい人がいる」と売り込んだそうです。
当初は本当に見込んでいたのかもしれないけど、その編集側は今、もちろん沈黙を守っています。この本は絶版になるそうです。

途中でこの原稿を読んで、ほんとうに、乖離に気づかなかったのだろうか?

音楽業界ではこの詐病に気づいていた人は相当数いたと聞きますが、もっと早く露呈する機会はなかったのだろうか。

なんてことを言うと「だからメディアの連中がこぞって匿して…」的なことを批判するひとびとがいるけれど、
つね日ごろ、感動秘話、病気や障害ネタ、泣ける話を有り難がってネットでシェアしたりする日本人は、なにもこういう現象に関与していないと言えるだろうか。お涙ものばかり売れるのはメディアだけのせいだろうか。

・・・と思いつつ、本当はメディアにも視聴者にも、誰にも咎があるわけではなく、涙腺刺激にしか反応できないような感性にさせられる情報過多時代そのものにも問題があるような気がするので、しょうがないのかなあと思います。


* * *

HIROSHIMAは、私は素敵な曲だと思います。聴いたらけっこうしびれる。マーラーっぽいゲーム的音楽とか揶揄もあるようですが、でも誰もこんなの作れないじゃないですか? 日本人が初めて作曲した交響曲、かどうか知らないけど、実際に聴くと、細胞がざわざわと喜ぶ感じがします。演歌風マーラー。


新垣先生はたくさんの学生や音楽業界者に愛されているので、これから出直されて、ちゃんと実名で活動されたらいいと思います。まずは「再生」とか「誓い」とかそういう交響曲を無償でつくって発表してほしいです。

ベートーベンは、罪のあがないとして、JAROの詐欺犯罪の警鐘広告に出たりしたらいいと思う。いいのか。