某2ch掲示板に私の名前が実名で挙がっておりました。


精神的ダメージとしてはかすり傷程度で済んでおります。
一晩寝たら元気になりました。

「地に足つけてしっかり頑張りなさい」

という心強いメッセージに思えてきたんですよね。
その板の存在を教えてくれた方に感謝です。
もう見ませんが。


書かれてる内容としてはあくまで噂の域を越えず、よくぞまあ匿名だとここまで好きな事を書けるもんだと感心しきりです。
そんなに応援してくれるんだったらその時間をソックリ私に譲って頂きたい。
期待に応えられるようしこたま練習するから。


全ての2ch掲示板が悪いと言うわけではなく、ちゃんとした礼儀の中健全な情報交換が成立している場所もあれば、そうでない場所でも中にはいい意見を書いている人もおられます。
ただ鬱積した負のエネルギーを掃き捨てる場所として皆が集まってくる習性をその場が一度持ってしまえば、その意見でさえ容易く侵食されあまつさえ”叩く”という行為の道具と化してしまいます。
自分が良識ある者と自負するならば、自分の意見を述べる場所としての選択を考え直すべきだろう。
「無慈悲」は即ち「人の心の死」を意味すると知れ。


何より一度その世界に加担したら、心を取り戻すの結構大変だと思うよ?



インターネットの匿名性について、いまさら云々語るつもりはありません。

「相手の目を見て話さない」

で済む世界は、自分の誠実さを磨かなくて済む世界。

「相手に自分の顔が分からない」

で済む世界は、自分の身の程を省みずに済む世界。



90歳も後半に差しかかろうかという京都のある農家のおばあちゃんが、以前テレビでこんな事を言っていた。

「私が荷車を引いて野菜を売り歩くやろ、そしたら大きい車がババァどかんかいとばかりにピーピー(クラクションを)鳴らしよる。私かてあんたの邪魔しよう思てよぼよぼ歩いてるんとちゃう。そんな人が特に最近増えたんちゃうやろか。自分の顔が相手から見えへんとなると、人間ちゅうもんは気持が大きなってつい慈悲がなくなる。せやから私はずっと荷車を引いてるんよ。」


確かにハンドルを握ると性格が豹変する人がいる。”ハンドルネーム”とは上手く言ったもので、同じようにインターネットの世界でも性格が豹変する人がいる。特にインターネットでは、私自身なるべく自分の顔と名前がはっきり自分と分かるように行動しようと心掛けています。それによって防御の姿勢が取れなくなる事もありますが、自分が自分でいられなくなる事の方が私にとっては致命傷だと感じるからです。



話が少し本題からそれております。

その某板で私のカタチをした人形が何人かにペシペシしばかれているのを自分が見てですね、何かこう「現実に引き戻された」ような気がしたんですね。
上手く言えませんが、今までは夢の中にいたような気がするんですよ。
目が覚めた思いです。
私の場合むしろ本当にシバいてくれて良かったと思えるんです。
事実仲間に甘えてたし、ある意味では誠実でなかったし。
その事で、謝りたい人も何人かでてきました。
もっと自分の言動に責任を持たなければいけないんだと、色々考えさせられましたし、勉強になりました。


ただですね、そこで名前が挙がっていた私以外の人達、私くらい前向きに捉えられる程度で済んでない仲間が大勢います。
明らかに「指摘」ましてや「愛のあるバッシング」という言葉に該当しない、汚辱且つ悪意に満ちた醜い言葉の数々を浴びせられた仲間が。しかも、

「書かれた本人がそれを読んだ時にどう思うのか、分かってて書いているヤツがいる!」

脱力しました。
心底ショックでした。

そう、酷過ぎるんです・・・。


大人ならば、例え集団で暴行するのが「嫌いな人に見立てた人形」であったとしても、心は少なからず痛むものでしょう?

「自分に限って、人形であれ集団で暴行するような現場に立ち会うなんて有り得ない」

いいでしょう。
あなたは実際にそんな人ではないかも知れない。
運良く、死ぬまでそういう現場に立ち会わないかも知れない。

皆さんに一つ。
想像してみてください。





「もしその人形の中に、その人の心があったら・・・」








その文章を本人が読んだ時、その人形にはその人の心が宿ってしまいます。









集団で暴行された時、本当に痛いのは体ではなく心だということ。











解決できない問題への複雑なストレスであれ、こういうカタチで報復してはいけない。
悲しい出来事に大勢を巻き込むこういったやり方は、もはやテロリズムである。











書かれた仲間の事が心配で仕方がない…。