私は元々集団生活に向いていない。
それを強いられるのも強いるのも嫌いだ。
それが人間的に欠陥だと言われても生まれつき苦手だから仕方ない。
だから閉鎖的な空間でまとまりとか協力とかを強いるのが本当に苦しかった。
ただそれがマジョリティにとっては当然で、一番快適なのだから仕方ない。
社会を回していくにはある程度「基準内」に収まる大きな母集団が必要で、一人ひとりの個性を本当に尊重していたら本来は社会が成り立たなくなる。
だから何となく無限に広がっているように見せた「個性の選択肢」をちらつかせて子どもたちを騙し、どうにか本来的自己を失わせて基準内に収める。
たまにこぼれ出てしまったものは抹殺され、ないものとして扱われる。
教育って何となくそんな感じかなと思った3週間。
怒られそうだけど。
みんなから「実に自由気ままに好きなように歩んできたのね」と言われる私の経歴だって、別に何も苦労しないで手に入れたわけではない。
私だってこぼれ出てしまった瞬間からそれなりの努力をしてきたし、大学に入って多少の修正をきかせてからも「レベルの高い教育」を受けてきた学生よりも数倍は高い成績を残すように意識してきた。
私の教育に対する考え方は結局、現代の教育に対する反骨心みたいなものが根底にあるものだから、うまく噛み合わなくて当然だった。
それが盲点だったかな。
私は結局子どもに「個性を失え」という教育は出来ない。
それは私が私の気持ちを大切にすることで得た経験、出会えた人たち、があまりにも魅力的だから。
まあ私の人間性だって所詮は与えられた1パターンに過ぎないけど。