夕闇が校舎を侵食し、湿ったアスファルトの匂いが鼻腔をくすぐる。二十年もこの仕事をしているのに、学生を叱った後の胸のざわつきは一向に静まってくれない。放った正論は冷たく、私の指先にだけ重たい熱が残っている。効率化できないこの「後味の悪さ」こそが、私たちが人間である証拠なのだろう。
湿った風と、消えない靴音
駅へ向かう道すがら、五月の生温かい風が頬を撫でていきます。雨が降り出す直前の、あの独特の重たい空気。 つい一時間前、私は実習室で一人の学生を「指導」しました。理由は、あまりにも初歩的な、けれど命に関わりかねない確認不足。
「プロとしての自覚が足りないんじゃないか」
そう告げたとき、彼女の視線がふっと床に落ち、体育館シューズの先がキュッと音を立てたのを覚えています。その乾いた音が、今も耳の奥にこびりついて離れません。校舎の廊下に漂う、少し古びたワックスの匂いと、夕食の準備を急ぐ近隣の家から流れてくるカレーの香りが混ざり合い、私の胃のあたりを重たく締め付けます。
二十年もこの道を歩んできました。臨床の現場で修羅場をくぐり、教壇に立って何千人もの若者を見送ってきた。周囲からは「ベテラン」と呼ばれ、いかにも動じない教育者であるかのように振る舞っています。けれど、本当のところはどうでしょう。
学生を叱った後の私は、いつもひどく無力で、情けないほどに揺れています。 「もっと別の言い方があったのではないか」「彼女の背景にある疲れを見落としていなかったか」。 二十年経っても、私は「正しい叱り方」の正解にたどり着けていないのです。教育者としてのプライドという薄い皮を一枚めくれば、そこには迷い、傷つき、自分の言葉の鋭さに怯える一人の人間が立ち尽くしているだけでした。
効率化できない「ノイズ」の価値
最近、私はAIという鏡を通して、人間を見つめ直すことが増えました。 もし、今日の私の役割をAIが担っていたらどうだったでしょうか。 AIは、彼女のミスをログとして記録し、過去の膨大なデータに基づいた「最も教育効果が高いとされるフィードバック」を、感情の揺らぎなく提示したはずです。そこには言い過ぎによる後悔も、相手の表情を伺う怯えもありません。最適解。最短ルート。効率的で、完璧な指導。
確かに、それは「正解」かもしれません。 けれど、今の私が抱えているこの「言いようのない不快感」や、帰り道のコンビニでつい手が伸びてしまった少し高いチョコレートの甘さは、AIには決して理解できない領域です。
指導という名の衝突によって生じる、この「割り切れなさ」。 それは、計算式では導き出せない、人と人が触れ合ってしまったときに生じる摩擦熱のようなものです。効率や正論だけで片付けてしまえば、私たちはもっと楽になれるのでしょう。でも、教育の本質――あるいは人間が共に生きることの機微――は、その「効率の悪さ」や「後味の悪さ」の中にこそ、沈殿している気がしてならないのです。
私が彼女に放った言葉は、彼女の心にトゲを刺したかもしれません。そしてそのトゲは、私の心にも同じように刺さっています。この痛みを共有しているという事実だけが、単なる「情報の伝達」ではない、魂のやり取りとしての教育を成立させているのではないでしょうか。
雨が降り出す前の、静かな祈り
ようやく駅のホームに辿り着くと、遠くで低く雷が鳴りました。 ポツリ、とコートの肩に雨粒が落ち、乾いたコンクリートに濃い斑点を作ります。
ふと思います。明日、彼女はどんな顔をして登校してくるだろうか、と。 腫れぼったい目をしてくるかもしれない。あるいは、何事もなかったかのように振る舞うかもしれない。 どちらにせよ、私はまた「ベテランの顔」をして、彼女の前に立つのでしょう。
AIなら「昨日の指導によるパフォーマンスへの影響」を即座に計算するでしょうが、私はただ、彼女が明日もあの廊下を歩いてくることを願うことしかできません。
正論は、時に人を救いますが、時に人を孤独にします。 その孤独を一番知っているのは、おそらく「正論を言わなければならない立場」にいる人間なのかもしれません。 二十年という歳月は、私を強くしたのではなく、むしろ「言葉の重み」に人一倍臆病にさせただけのような気がします。
雨が本格的に降り始めました。 傘を広げると、ナイロンの布地を叩く雨音が、騒がしい頭の中を少しずつ洗い流してくれます。
正解のない毎日を、私たちは不器用に歩いていく。 今日私が感じたこの胸の痛みも、きっと明日、彼女にかける言葉をほんの少しだけ柔らかくするための、大切なプロセスなのだと信じて。
家に着く頃には、この雨も少しは小降りになっているでしょうか。 明日の朝、教室の窓を開けたときに流れ込む空気は、今日よりも少しだけ澄んでいることを、今はただ、静かに願っています。
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