鏡の理論とは、
記憶に基づいて考えが起こされる限り、
どのように考えようとも己に成るという理論であり、
つまり他者の話す言葉の意味は、
己に成ると云うことなんですが、
これではまだ未完でしかなく、中途半端なのです。
記憶一つで考えが起こされる訳ではなく、
必ず記憶が意識に触れて考えが起こされています。
この事から、
例えば、意識側からの情報によっては、
引き出される記憶が限定されてしまうのですから、
意識は先ず誰でもない状態として記憶に触れているのです。
つまり意識側を単純に自分としてしまうのは誤りでしかありません。
意識側はまだ誰でもなく、記憶に触れて初めて自分に成るのです。
そこの所を履き違えてしまうと呪いに掛かってしまいます。
考え起こされればもう自分でしかないけど、その考えが何故起こったのかに着目して、しっかりと区別しましょう。
自我まみれで総ての我に徹するのは危険であり、続けると呪われたかの如く深刻な事態が起こされてしまいます。
これは哲学をした数少ない特殊な人へと
言える事です。
しかしながら、
四六時中ネットのみで文字ばかりを相手にしている人も気をつけてください。
文字ばかりが相手では、距離感が次第に剥奪されてしまい、
知らぬ内に鏡の自分が強くされてしまうのです。
それは、誰もが他者が示した文字には他者の意味が込められていると通常は考えますが、
文字ばかりが相手だと、現実のように距離感が計られない為、
距離感の無い自分の考えばかりが記憶に刻まれてしまい、
次第に視野の狭い病的な自我が形勢されてしまうという事を警告せねばなりません。
つまり知らぬ内に鏡の要素が強められてしまうのです。
強く自分に引き込んだ考え方に当たり前とされてしまうと、
記憶から引き出される考えが融通の利かない自我まみれとなるので、
まるで意識側が敵であるかのように現象してしまうのです。
例えば自分の意思ばかり貫いてしまう者というのは、
妥協が無い自分の考えばかりを繰り返してきた者に他なりませんよね?
そのように気付かぬ内だとはいえ、距離感の剥奪された文字のみが相手では、
妥協の必要が無い自分の考えばかりを繰り返して記憶に刻み続けていて、
最終的に考えを捻出するに必要な記憶自体が、呪いのように
自分本位の妥協出来ない考えばかり起こさせるように成ってしまうのです。
他者の考えに触れているようで、自分の考えを繰り返しているだけとなる文字のみ相手では、現実の他者と接する場合より鏡の要素を強められてしまうという危険が潜んでいるのです。
しかも書き込んだりする際にバックは白。まるで蛍光灯をずーと眺めながら思案しているようなもので、白は暗示に掛かりやすいときている。
この呪いを解く方法は一つ。
文字ばかり相手にするのを止めて、
自ら人と積極的に接すること。
他者ありきの自分として接すること。
それを続ける事で、
呪いは解かれます。
さて、前者は鏡だと知りながら肯定し、
それを続けた結果、呪われた有様となりますが、
後者は知らぬ内に進行して陥った状態です。
----
前者に言いたいのは、
他者が全て自分を映し出す鏡だとばかりではないと云うことなんです。
意識側からの情報によっては、
引き出される記憶が限定されてしまうのですから、
意識は先ず誰でもない状態として記憶に触れているのです。
そうすると、単純に総ての我に染まろうとするのは、
融通の利かない井の中の蛙に成ることなんだと気付けるでしょう。
思考する以前の意識のみでは、誰でもないからこそ、記憶にて染められるのです。
ならば前者のように結論を出してしまうのは、まだ見落としているのだから、
意識は意識のまま記憶に染められないままだからこそ意識側であるのだとして、
そのように展開することこそが重要なんだと判るでしょう。
それはつまり、
者心付く前となる状態から者心付いた状態を指していると言えば解りやすいでしょうか。
しかし、
既に知能を保持している状態から者心付く以前に沿うなんてのは誰もが不可能だと考えてしまうでしょう。
が、一度は誰もが通った道なんです。
冷静になって精神を見つめ、
精神の深層まで届いたなら、
知能を保持したままの状態からでも
者心付く以前の再現は行えてしまうことに気付けるのです。。
同一は記憶の中で同一同士異なりして比較が可能となり、
展開が始まる。
言葉は意味にしない限り、意識と記憶は等しく同一のままです。意味は常に習性の如く起こされようとするが、それを否定してさえいれば、
未確定のままとなるので、同一となる言葉は残されます。そのようにして同一となる言葉を集める。
こうした形態を完全に大肯定するのです。
これはまさに者心付く前の意味すらない状態に等しく、意識に対している記憶が等しい状態となるあれこれの同が集まっている。
そのようにして、
例えば異性に対して、何でこんな考え方になるのだろうか?
とする言葉を実践により集めていれば、
集めた同同士の関係性より見出だされる瞬間が訪れるのです。
それは通常となる意識が記憶に触れて考え出すといった記憶色に成ってしまうのを超えて、
再び者心付いたかの如くに、
己へと無理なく浸透するありのままの見出だされた対象となるのです。
追記
科学力を駆使して盗み見ているだけの
権力者が、偉そうに言える事等、その汚い行いが公に成ればどうなるだろうか考えるべきだ。
あの手この手と使いして裏から他のせいにしてのさばる者は、盗みたい心を隠して別の理由をこじつけたがる。
しかしどれだけ盗み見ても結果は変わらない。
記憶色に染まるだけの知識からはあんたらの欲しがる錬金術は得られないからだ。
ただ井の中と成る記憶色の染め方が増えるに過ぎない。
盗み見となれば尚更だ。
元々からして、盗むという行為は、考え出そうとするその基が既に疚しさを孕んでいて、
自分本位の解釈が先行してしてしまうのみとなる。
通常の知識ですら記憶色が反映されるというのに、盗みなど愚かだとしか言いようがない。
そのように相対化では結局己の記憶色に染めるのみだと知れ。
者心付く前の形態とは根底から異なる。
盗む者は逆に精神に必要な大事なものを盗まれるのだ。
※これは 例の ちなみに を指しているのではありません。
彼は明らかに虚言癖妄想癖があり、病んでいるとしか言いようがないのでそっとしておいてあげてください。
記憶に基づいて考えが起こされる限り、
どのように考えようとも己に成るという理論であり、
つまり他者の話す言葉の意味は、
己に成ると云うことなんですが、
これではまだ未完でしかなく、中途半端なのです。
記憶一つで考えが起こされる訳ではなく、
必ず記憶が意識に触れて考えが起こされています。
この事から、
例えば、意識側からの情報によっては、
引き出される記憶が限定されてしまうのですから、
意識は先ず誰でもない状態として記憶に触れているのです。
つまり意識側を単純に自分としてしまうのは誤りでしかありません。
意識側はまだ誰でもなく、記憶に触れて初めて自分に成るのです。
そこの所を履き違えてしまうと呪いに掛かってしまいます。
考え起こされればもう自分でしかないけど、その考えが何故起こったのかに着目して、しっかりと区別しましょう。
自我まみれで総ての我に徹するのは危険であり、続けると呪われたかの如く深刻な事態が起こされてしまいます。
これは哲学をした数少ない特殊な人へと
言える事です。
しかしながら、
四六時中ネットのみで文字ばかりを相手にしている人も気をつけてください。
文字ばかりが相手では、距離感が次第に剥奪されてしまい、
知らぬ内に鏡の自分が強くされてしまうのです。
それは、誰もが他者が示した文字には他者の意味が込められていると通常は考えますが、
文字ばかりが相手だと、現実のように距離感が計られない為、
距離感の無い自分の考えばかりが記憶に刻まれてしまい、
次第に視野の狭い病的な自我が形勢されてしまうという事を警告せねばなりません。
つまり知らぬ内に鏡の要素が強められてしまうのです。
強く自分に引き込んだ考え方に当たり前とされてしまうと、
記憶から引き出される考えが融通の利かない自我まみれとなるので、
まるで意識側が敵であるかのように現象してしまうのです。
例えば自分の意思ばかり貫いてしまう者というのは、
妥協が無い自分の考えばかりを繰り返してきた者に他なりませんよね?
そのように気付かぬ内だとはいえ、距離感の剥奪された文字のみが相手では、
妥協の必要が無い自分の考えばかりを繰り返して記憶に刻み続けていて、
最終的に考えを捻出するに必要な記憶自体が、呪いのように
自分本位の妥協出来ない考えばかり起こさせるように成ってしまうのです。
他者の考えに触れているようで、自分の考えを繰り返しているだけとなる文字のみ相手では、現実の他者と接する場合より鏡の要素を強められてしまうという危険が潜んでいるのです。
しかも書き込んだりする際にバックは白。まるで蛍光灯をずーと眺めながら思案しているようなもので、白は暗示に掛かりやすいときている。
この呪いを解く方法は一つ。
文字ばかり相手にするのを止めて、
自ら人と積極的に接すること。
他者ありきの自分として接すること。
それを続ける事で、
呪いは解かれます。
さて、前者は鏡だと知りながら肯定し、
それを続けた結果、呪われた有様となりますが、
後者は知らぬ内に進行して陥った状態です。
----
前者に言いたいのは、
他者が全て自分を映し出す鏡だとばかりではないと云うことなんです。
意識側からの情報によっては、
引き出される記憶が限定されてしまうのですから、
意識は先ず誰でもない状態として記憶に触れているのです。
そうすると、単純に総ての我に染まろうとするのは、
融通の利かない井の中の蛙に成ることなんだと気付けるでしょう。
思考する以前の意識のみでは、誰でもないからこそ、記憶にて染められるのです。
ならば前者のように結論を出してしまうのは、まだ見落としているのだから、
意識は意識のまま記憶に染められないままだからこそ意識側であるのだとして、
そのように展開することこそが重要なんだと判るでしょう。
それはつまり、
者心付く前となる状態から者心付いた状態を指していると言えば解りやすいでしょうか。
しかし、
既に知能を保持している状態から者心付く以前に沿うなんてのは誰もが不可能だと考えてしまうでしょう。
が、一度は誰もが通った道なんです。
冷静になって精神を見つめ、
精神の深層まで届いたなら、
知能を保持したままの状態からでも
者心付く以前の再現は行えてしまうことに気付けるのです。。
同一は記憶の中で同一同士異なりして比較が可能となり、
展開が始まる。
言葉は意味にしない限り、意識と記憶は等しく同一のままです。意味は常に習性の如く起こされようとするが、それを否定してさえいれば、
未確定のままとなるので、同一となる言葉は残されます。そのようにして同一となる言葉を集める。
こうした形態を完全に大肯定するのです。
これはまさに者心付く前の意味すらない状態に等しく、意識に対している記憶が等しい状態となるあれこれの同が集まっている。
そのようにして、
例えば異性に対して、何でこんな考え方になるのだろうか?
とする言葉を実践により集めていれば、
集めた同同士の関係性より見出だされる瞬間が訪れるのです。
それは通常となる意識が記憶に触れて考え出すといった記憶色に成ってしまうのを超えて、
再び者心付いたかの如くに、
己へと無理なく浸透するありのままの見出だされた対象となるのです。
追記
科学力を駆使して盗み見ているだけの
権力者が、偉そうに言える事等、その汚い行いが公に成ればどうなるだろうか考えるべきだ。
あの手この手と使いして裏から他のせいにしてのさばる者は、盗みたい心を隠して別の理由をこじつけたがる。
しかしどれだけ盗み見ても結果は変わらない。
記憶色に染まるだけの知識からはあんたらの欲しがる錬金術は得られないからだ。
ただ井の中と成る記憶色の染め方が増えるに過ぎない。
盗み見となれば尚更だ。
元々からして、盗むという行為は、考え出そうとするその基が既に疚しさを孕んでいて、
自分本位の解釈が先行してしてしまうのみとなる。
通常の知識ですら記憶色が反映されるというのに、盗みなど愚かだとしか言いようがない。
そのように相対化では結局己の記憶色に染めるのみだと知れ。
者心付く前の形態とは根底から異なる。
盗む者は逆に精神に必要な大事なものを盗まれるのだ。
※これは 例の ちなみに を指しているのではありません。
彼は明らかに虚言癖妄想癖があり、病んでいるとしか言いようがないのでそっとしておいてあげてください。
38.無題
2010/06/08 01:48 元に戻す