診察の時間を早めることは可能か問い合わせた。
受付の方が対応してくれました。
『どういう状態ですか?』
「はい、月曜日から体重が22gで、鼻涙管が詰まって口の中まで腫れ、かなりマズイです。」
『少々お待ちください…』
『12:45に変更は可能ですが、連れて来られる状態か◯◯さん(私)の判断でお願いします』
『もしくは、動画を送って頂くのも可能です』
「連れて行けるような体力はないですが、このままでも改善の見込みが薄いので是非お願いします。」
…連れて行ったところで、医学的には無理ラインなんだということを悟り、受け止めました。
それでも、病院に出かけるにはまだ早いね。
ギリギリまで保温室で温まろう?
こなす?
私の母と、こなすの姿が重なります。
母は人工呼吸機を使う治療を本人の意思で選択。
母は諦めず闘うと。
「母さん‼️凄くカッコいいよ‼️(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)‼️」
私の言葉に、涙を浮かべて微笑みながらピースサインしてカッコつけてから、睡眠薬で眠りながらの人工呼吸機を使った治療を始めました。
それから2週間ほどでしょうか?
もう見込みがないと判断され、
担当医も2人ほど変わり…。
母が選んだ病院は、
若い研修医がたくさんいる病院でした。
点滴の跡が異常に内出血していることも常にありました💦
点滴をこんなに失敗して…下手くそじゃん💢
と怒る私をなだめるように母は、
『◯◯(私)だって、資◯堂のときも、他の会社の研修も真剣に失敗しながら練習したろ?』
と、微笑んでみせた。
母は、先行きが短いと悟りながら、社会に貢献していた。。。さすが母さん。
まるで、スズメの親がこうやって生きるんだよと幼鳥に経験させるような教育だ。
その生き様を見て、私も学ぶよ。
母さんのように立派な振る舞いを出来るかわからないけど。
そんな様々な事もあって、人工呼吸治療へ。
回復の見込みないって?
治療の続行か、死なせるかという選択を迫られたときの気持ちを思い出します。
「寿命は、母が自分で決めます。」
と、家族の中で1人だけ浮いた答えをしました。
毎日、毎日、母が目覚めたときに足が動くようにとストレッチとマッサージを1か月ほどしました。
勝手に母さんの寿命を決めんな💢
と、母を守るようになり…病院からすると、他の患者を優先したい空気も感じました。
病院にとっては困ったひとだったことでしょう💦
結局、お見舞いにきた親族の誘いで母から離れたとき、
タイミングをはかったかのように人工呼吸機が外され、一応、救命処置をしているのを目の当たりにしました。
仕組まれた💢と怒りの感情と、
諦めなきゃいけない現実との葛藤は、
亡くなった後も5年は続いたでしょうか。
あらら?
こなすの話から、私の母のことまで書いてしまいましたm(_ _)m
おも!重すぎる話になったかもヽ(;▽;)ノ
ごめんなさい💦
去年あたりからかな?
こなすの看病は、母の死を学べるように、
それらを超えていくために用意された試練のように感じていました。
程よい投薬、看病、心のケア、、、バランス。
ありがとう、こなす∧( 'Θ' )∧
その生き様を見て、私も学ぶよ。
見た目はボロボロだけど、
凄く美しい不死鳥だよ(*´ω`*)❤️
さてと‼️
こなす!鳥の病院までドライブすっぞ‼️
こなす、オラについて来いよー🔥
でも、頑張りすぎ注意だよ(*´ω`*)
今を生きることを、
無理矢理にでもさ、、、
思いっきり楽しもうぜ(((o(*゚▽゚*)o)))こなす🔥
あ、また、読み返しが出来ない感じ。
乱文のままで申し訳ないです。
読んでくれて、
応援してくれて、
気持ちに寄り添ってくれて、
デコポンを送ってくれようとしてくれて、