3日過ぎて多少は落ち着いているだろうということで、先日19日の桜///桃///忌について思ったことなどを書く。君達は他人様の墓参りに行ってゲロ不機嫌になって帰った経験があるか!私はある!!!!!!基本的にヘイトとレイジまみれの来年うっかり参加しない用備忘録である。




午後2時過ぎくらいに三//鷹//禅//林//寺に到着、さて花を供えようと思ったら門の所に人だかり。今日の主役太//宰//治ゆかりの場所を巡るツアーだそうで、年に一度だし次来るかもわかんないしな、と貧乏性を発揮して60分のコースに参加したのがそもそもの間違いだった。


つうかこの日に法事重なるとクソ大変だね。まず門の所に人が30人くらい密集してて通るのもギリギリだったし。この日は雨模様だったので雨よけの意味もあって屋根代わりに門の下にいたのかもしれないとは思うけど、普通にお寺を利用する人もいるんだからさあ……って感じ。


この後もちょいちょい書くけど、参列者のマナーがどうこうってのはもちろんあると思うよ。あいつら基本的に浮かれ通しの陶酔し通しに見えたしね。でもそれ制するのがツアーとか桜//桃//忌の主催者側の役目じゃないの?って思ったしこっちの方が正直問題。寺の通路の確保・誘導もしねえで参加者と談笑してんなよダボが。


とりあえずツアーに参加しまーすつってから5分くらい待たされて(名前とかも聞かれない。参加する人はこの辺にいてくれたら順次連れてくって言われただけ)ツアー開始。元々は読経のあとに寺の部屋を貸し出して懇親会とか朗読会みたいなことを毎年やってたらしいんだけど、一昨年に太//宰最後のお弟子さんが亡くなってからはそれの代わりにボランティアがツアーや展示を運営してるっぽい。


ツアーでは太//宰//治の庭から移植したさるすべりだの、入水場所(と言われているだけ、というのも当時の状況がほぼ不明であったため)だの、太//宰//治の故郷である青森から彼を偲ぶよすがとして贈られた石(玉//鹿//石といい、青森で産出する錦石の一種)だのを見て回った。


その間ツアーガイドの方から語られる内容はあくまでも太//宰//治の「人柄」そして「生活」に焦点があてられたものだった。でもそこでは皆がそれに興味を持っているように感じた。正直、異様な空間だったと思う。作品はどうした作品は。
これに関しては、太//宰の人と生涯を「自分の物語」として聞いているのではないか、という印象を受けた。お前太宰ほどモテないじゃん。ていうか作品は基本的にキャラクターで書くもんじゃないし本人はキャラ商売しようとはほぼほぼ思ってなかったと思うよ。


ツアーのコースになっているところは歩道が狭く、団体で歩いていると邪魔になる場面もある。しかしガイドは一切誘導しない。特に玉//川//上//水付近では道路にはみ出す形の参加者にも注意をしなかった。さらに、説明の際に立ち止まる場所がいちいちまずかった。どっかの店の駐車場(店舗は営業中)、店の入り口付近で止まって話す。利用者が来てもどかない、注意を払わない。場所によっては平気で10分くらい立ち止まっている。それが1グループ10人とかいるから完全に場所を塞いでいて地獄。


そんな訳でツアー自体は正直胸糞。一緒に歩いてて恥ずかしいというか、気が気でないというか、とにかくイライラしてしまった。それからこれも気になったんだけど、さるすべりの木にしろ玉//川//上//水にしろ、そんなに写真撮ってどうするの、という感じ。壁紙にでもするのかね?私はもしもそうできたならもっと長生きして色々書き続けてほしかったし、家族遺して情死した点は普通に屑だと思うから何も共感できなかった。


そのあとは期間限定の展示を行っているというギャラリー(ボランティアの方々が通年で営業している文学サロンには今回時間がなく行かなかった)へ。連れもいねえのに独り言だか「何か」見えてるのか突然「ああ、本当にデカダンだったのね」とか呟く来場者がいてつらかった。私はしらふでデカダンなんて呟けない。まあ自由だよ自由。次会ったら頭皮ごと髪の毛毟ってやるからな。


ギャラリーでは太//宰//治の「家庭人」としての一面がやたらに強調されていたように思う。ていうか流行してても金持ちじゃないもん、緊急時に免税の申請書くらいは書くだろうよ……。家の書類書いたら家庭的になるのかなあ。嫁さんの回想録を引用して色々語られていたけど、それって何回も重版やら改版やら出てるし(一番新しいのは講談社の文庫か?)、図書館ででも手に入るしわざわざ持ってこなくても、という感じだった。まあ記述自体はすごく面白いし、夫人の記憶力は確かに優れていると思うのだけど。


見られて良かったと思えたのは自画像や初版本、検印の実物か。でも人間失格の初版本帯にもう「作者が自身を落とし込んだ文学作品」的なことが書かれているのにはげんなりしたよ。告白でも何でもいいけど、こうして読みの方向付けが行われるんだなーって感じ。テキスト=本人という読みはそれだけではなかなか機能しないはずなんだけどね。しかもそうしたイメージがそれから7、80年そのままなんだから恐れ入るぜ。


展示以外で良いと思えたのは写真撮影禁止をスタッフが徹底してたことぐらい。カメラ向けてると即注意、その後一緒に画面を確認しながら撮影した写真の削除までしっかりやってた。そうだね、知的財産権的なものがあるもんね。偉いぞ!!!


その後、結局花束ぶら下げたままだったのでもう一度寺に戻ることに。時間は17時過ぎ、雨もあってそこそこ暗いし寒かったのだが……いる!まだ墓の周りに人が!しかも熱く語っている!邪魔だ!!!!!!!!
太//宰//治のはす向かいには森林太郎(森鴎外の本名、「もりりんたろう」より「しんりんたろう」の方が確実に一発で変換できる)の墓があるので、独文専攻だった身としてはこちらも疎かにはできぬと思ってそっちにも手を合わせたんだけど、いやー、後ろがうるさかったね。しかもやっぱり作品の話じゃないもんね。作品読んで「自分が」感動したって話だもんね。
そんで太//宰の墓に近づくんだけど、どいてくれねえのそいつらが。別に何かのファンはマナーが悪いとかどうとかじゃなくてさ、ちょっとだけスペース空けといてくれればいいんだよ。何でわざわざ傘さして墓の前で固まって話してるの。何で「すみません、通してもらってもいいですか」って頼んでるのに通してくれないの。そこにいて一緒に話してた子供(小学生だって言ってた)が「どうぞ、通ってください」って言ってくれたけど、ここはお前の家の墓じゃないし、お前に許可される覚えもないし、怒髪天で「ありがとうボク、ところで君は学校に友達いないの?」って聞きかけたわ。自分らのことしか頭にないのかよ。


私の後に来た人たちもそこでいったん詰まってたし、私とその人たちが順々にお花や、食べ物やを供えて手を合わせていると後ろから先ほどの小学生の声で「ぼく、写真撮りたいんですよ~」……そんなに死にたきゃ今すぐここをお前の墓地にしてやろうか。墓の写真撮ってどうするの。記念か。嬉しいんだねよっぽど。でも他の人の墓もここにはあるよ。それで普通に家族のお墓に来てる人もいるよ。
作家が死んだとき、檀家はみな自分たちの先祖と同じ墓所にこの作家を入れることに反対したそうだ。何せ不義理も不義理のうえ、作家が飛び込んだ場所は近隣の住民の飲み水になる川だったからだ。それを住職が「死んだら皆仏様だから」と入れてやったらしい。その後70年ばかりも人気が続くなんて住職には予測不可能だっただろうけど、何かやりようがあったんじゃねえかなあ。


私が聞きたい、知りたいのは最新の太//宰研究だった。あるいは自分のこれまでの読みに対して何らかの刺激や新しい視点を与えてくれる情報だった。完全に行くところを間違えた。どこかの大学の講演会でも授業でも潜り込めばよかった。そういえば私には自分の論文の直しもあったのだ。家にいればよかった。死ぬほど、というよりは殺すほど、私は不機嫌になって帰ってきた。


結局、とかいうとあれだけど異性・同性関わらずアイドルなんかの芸能人やその辺の人を相手に一応は「かわいい・かっこいい」程度の感想を持つことができるまあ平凡な感性を持ちながら、「誰かと一緒じゃ嫌なの!個性欲しい!個性!!!!!」というゴミカス以下のプライドと願望を持ってしまった人間にとって担ぎやすい御神体、御神輿が太//宰//治なんだと思う。


事実今回は向こう3年分くらいの「ボクの・ワタシの考える最強の文化的な人間をやっているつもりで笑えもしないレベルの滑り方をしている人々」を見てつらかった。集まってると皆一緒に見えるのにね。あの集団にギャルひとり突っ込んだらその子の方がよほど「個性的」だ。


あとは周り見えてない問題。日付のせいもあって人が多く、いっぱいいっぱいだったし偶然雨模様だったから色々がおかしかったのかもしれないけれど、後ろから「すみません」って声をかけられてるのにどかないのはそれ良くないよ。浮かれてる皆様がそうなっても仕方ないならせめてガイドが気を配って注意するなり整列させるなりしてどうにかしてくれよ。道路塞がれたり、騒がれたり、人んちや人の店の前で10分も立たれたり、写真撮られまくったりしたらそりゃ面白くないよ。
やってる側にとっては聖人みたいなもののためかもしれないけど、その人を知らないし知る気もない人に、その行為を正当だと思わせるだけの説明ができるだろうか。周りの圧力って怖いぞ。長く続けたいなら共存を試みるか、完全に相手を黙らせるかしなければ難しいと思う。




読み飛ばせ横道。
「人と違っていたい」という人の中には、自分以外と関わりたがらない人がいる。そうした人たちは私から見るとただの臆病か、他人と関わることで自分の中の「唯一」や「個性」が「実はそこら中にありふれている珍しくも何ともないもの」になってしまうのが怖いだけなんだろうなと思えてしまう。クソだ。また中には自分のことを理解してくれる人以外はみんな馬鹿だから付き合わなくていいというような、亜種っぽい考え方の人も存在する。しかも理解=褒めること、理解しない=自分自身を否定する敵、といった単細胞生物もびっくりするくらい単純な色分けの人がいたりして付き合いたくなさがすごい。
理由は色々だが、アイデンティティを「人と比べて変わっていること」に置くと大惨事だ。何せそれが揺るぎのない自分だと信じてしまったら、後はそれを守るしかなくなる。自由が利かない。あるときふと「友達がいたらいいのに」と思ったとする。あくまで過程だけの話で成功するかどうかは別になるが、今まで会話していなかった周りの人にでも話しかけてみればいい。けれども、自分が変わっていて、それゆえに友達ができない、逆に言うなら友達がいないことこそ自分が個性的であることの証左だと感じており、それを「本当の自分」だと考えている人だったら、どうだろうか。大部分は自分を守るために何もしないか、あるいは」存在するしないに関わらず「『個性的な自分』を傷つけることのない」ものを友達の代用に仕立て上げるかだと思う。
そんなことを続けていて、自分の中に自分しかいない状態で、でも結局誰かと何か好きなことについて話したい、などと思ってしまったらそれはもうみじめまっしぐらになる可能性が高い。墓の前で我先にと話す彼らは、「今日こんなことがあったの!」と報告し続ける幼児のようだった。話が通じているように思えるから話しているときは嬉しいだろうけれど、それは錯覚でしかないのではないか。傍からでは会話が噛み合っているようには聞こえなかった(もしかすると私にはわからない法則があったのかもしれない)。
そういう、何かきっかけがあったのかもしれないし聞かせてもらえばあるいは同情できるかもしれないけれどどう少なく見積もっても3割くらいはてめえのせいで気持ち悪いといった人々は、ただただ大変そうだな、と思う。まあたまゆらの間でも楽しいと錯覚できりゃいいのか。それって努力いらねえし結局甘そうな部分(そして恐らくほとんどうまみも栄養もない部分でもある)だけもらえりゃいいのか。別に養殖に比べて天然物の方がとは一切思いやしないけど、そんなの貧しい気がするよ。




得られるものも特になく、とりあえず「こいつら皆滅ぼしてどうか安息の得られんことを」と念じるのが精一杯だったよ。喧嘩ふっかけなかっただけ偉い。来年以降はどうしても体力が有り余ってて大変なんです、とかならない限りもう行かない。思い出したことがあればまた追加するかもしれない。