天才ヴァイオリニスト嵯峨野飛鳥のコンサートが行われた夜、当の飛鳥と広尾のバーで一時を過ごした犬飼一郎。
彼は都内の大手メーカーのプロモーション担当として働いている。
あの夜、飛鳥と少し打ち解けられたような気がしていたが、その後は特に何のやり取りもなかった。
今日は午前中に九段下で出版社との打ち合わせがあり、気がつくと、午後1時を回っていた。
「あれから何の連絡もないよな。俺からもしてないけど。でも逆に何を言えばいいのだろう」
ぶつぶつと独り言を呟きながら犬飼は神保町方面に歩いていた。
これから社に戻って書類を幾つか作らなくてはならないが、しかし、腹が減った。
飛鳥が恋人だったらどんなに素敵な日々だろう。妄想は広がるばかり。
神保町から水道橋にかかるあたりは専門学校や大学が多く、学生たちが校舎から出てきて、楽しそうに集まっている。
あんな感じ、昔の自分にもあったよなと、羨ましそうに見つめる犬飼。
あの頃なら、ただ会いたいという気持ちだけで連絡が出来たのに…今の自分は何か理由を探してしまう。
そのまま歩いていると、トルカリというバングラディッシュ料理屋の看板が目に飛び込んできた。客は入っているようだが席にはまだ空きがある。
犬飼は吸い込まれるように店に入った。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
「カウンターどーぞ」
案内されたカウンターに座り、メニューを見るが、たくさん書いてあってどうにも絞れない。
仕方がないので、いろいろ入っていそうなセットを頼むことにした。
店員を呼び、そのセットに、さらにもう一つ本日のカレーを追加しようとした。本日のカレーの中身を確認するも、どうやら店員自身がわからない様子。
奥の厨房にいたもう一人のバングラディッシュ人が新たに出てきて犬飼に説明してくれるのだが、よりバングラディッシュ語で、今度は何を言っているのかさっぱりわからなかった。
えい。ままよ。
「それでお願いします!」
犬飼は本日のカレーを注文した。
しばらくすると、セットのラッシーが運ばれてきた。試しに一口飲んでみると、程よく甘くて美味しかった。これは先が期待できる。
「はい、どうぞ」
セットが到着した。
「おお!これは見事」
思わず声が漏れる。
チキンカレーにダールスープ、バスマティライスにバスマティライスのピラフ、野菜のセット、魚の旨煮、チリソースと、美しく素材が並ぶ。
遅れて追加のカレーもやってきた。ほうれん草とチキンのカレーだった。オーソドックスな種類で安心した。
まずは野菜から。犬飼はスプーンで、順番に野菜から食べていく。オクラの和え物、ジャガイモとインゲンの煮物、ほうれん草の和え物も全てちょうど良い刺激の味で癖もない。野菜が多いのは独身の身には嬉しい。
ほうれん草とチキンのカレーは優しい味で、これまたどんどん食べられる。
主役のチキンカレーは程よくスパイシーで中のチキンもごろごろと入って、バスマティライスとの相性抜群。
いろいろな味が混ざり合って一口一口新しい驚きに満ち溢れている。
「良い店じゃないか」
犬飼は独りごちた。
全て食べ終えると会計を払い、店を出た。外に出ると霧雨が降っていた。
携帯を見る。特にリマインドはない。
ため息をつく犬飼。
「やっぱりダメなのか…」
霧雨にけぶる町に犬飼の言葉はかき消された。
その時、ピコっと携帯電話が鳴る。
「犬飼くん、これ興味ある?」
飛鳥からのメッセージだった。
犬飼の顔に笑みが溢れる。
しまった。
思わず手で顔を覆う。
誰も周囲にはいないようだった。
霧雨が犬飼の心を町から隠してくれたような気がした。
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トルカリ
050-5571-3185
東京都千代田区神田神保町2-34
Phoenix 神保町ビル 1F
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