「死ぬ…汗が止まらん…」

 貝塚弥子は神保町の交差点で額から吹き出す汗を拭った。


 貝塚は教え子の院生に教えてもらったラーメン屋覆面智に来た。家から直接神保町にあるこの店に来たのはいいが、昼時であったため、37度の猛暑にもかかわらず外に6人程列が出来ていた。出直そうか…そう思ったのだが、そこで3人ほど店から客が出てきたため、思い直して食券を買った。


 今日は伊勢海老出汁のラーメンだそうだ。

 この覆面智は毎月出汁に使う食材が変わる。基本の味付けは同じだが、出汁が変わるため全く飽きが来ないというのがその院生の推しであった。

 

 貝塚は東京の最高学府である首都大学で准教授をしている。まだ30代半ばで、スラリと背が高く割とイケメンであるため、学生から人気があり、密かにファンクラブもあるほどだった。


 貝塚は、ニューヨークの大学から異動してきて、あまりそういったことには無頓着だった。そして、値段を問わずうまいものに目がないため学生から情報を仕入れるたびにそこに行ってみることが半ばライフワークのようになっていた。


 ラーメン屋は強面の店主と弟子の二人で切り盛りしており、店内の客は常連も多そうで、何より店内は静かだった。

「携帯電話はお控え下さい」と貼り紙があり、一時流行った厳しめのラーメン屋ということが伺えた。


 貝塚はその日の日替わりラーメンである伊勢海老出汁のラーメンを頼んだ。それに会員カードを見せてネックと生卵をトッピングした。この会員カードは院生に借りたものだった。カードがあるとトッピングが無料になるのだ。しかも、会員カードの種類により無料となるトッピングが増えるそうだ。


 静かな店内にいると、店主の湯切り音や、大きな寸胴で湯が沸騰する音、スープを注ぐ音などが聞こえてきて食欲をそそられる。


「はい、お待ち」

 目の前から丼が渡される。熱々で湯気が出ている。この灼熱の夏日に熱々のラーメン。俺もどうかしてると思ったものの、目の前のうまそうなビジュアルに暑さも一瞬吹き飛んでいた。



「これはまた、面妖な…」

 思わず声が漏れていた。海老の出汁がしっかりと出ているスープの色。醤油と合わさった濃い焦茶色。そして、チャーシューとネックの肉が食欲をそそる。上からまぶされたネギと焦がしエシャロットがビジュアルに彩を加える。

 貝塚はレンゲでスープを掬った。



 ぷんっと海老の匂いが鼻に香る。うまそうだ。

一口啜ると、伊勢海老の濃厚な味と香りが口の中に広がり、醤油味の濃いめのスープが舌の上に転がりガツンとした旨みが脳を揺らす。


「こりゃたまらん」

 貝塚は独りごちた。



 貝塚は勢いに任せて麺を啜る。ズルズルという音と共に大量の麺が入ってくる。卵麺でややストレートよりの縮れ麺。食べやすく熱を逃がさない。さらにスープを引き連れ口の中で爆発する。

 腰のある麺は思いの外もちもちとしており、食べ応えもあるが、スープを邪魔することなくスルスルと入ってくる。見事としか言いようのないバランス。オリンピックの体操選手のようだと、貝塚は昨晩つい見てしまったオリンピック中継を思い出した。日本は金メダルの快挙。こちらのラーメンも金メダルだろうと1人納得した。


「ご馳走さまでした」

「またね、先生」

「え?」

 なぜ自分の身がばれているのかと訝しむも、店主はニヤリと笑うのみ。その笑顔にうすら寒いものを感じる貝塚。いや、きっとあの院生が事前に言っていたのだろうと思い直し、会釈をして店を出た。


 店を出ると、途端に熱風が吹き荒ぶ。既にスープを飲んで汗だくだが、それに負けるとも劣らない屋外の暑さに辟易とした。


 そういえば、この辺に昔よく通った喫茶店があったはずだと探してみると、やはりその喫茶店は昔と同じ古めの佇まいでその入口があった。

 急な階段を地下に降りていくと、まるで時空をスリップしていくかのような雰囲気に包まれる。

 ぐいっと扉を開けると、チリンと装飾音が鳴り、貝塚の来訪が店に響き渡る。


 店内は昭和の喫茶店の風情。昔のままだ。居心地の良いカウンター席に案内される。本来なら熱々の珈琲を飲みたいところだが、今日ばかりはそうも言っていられない。


 貝塚はアイスコーヒーを注文した。

 ここは本来ネルドリップの珈琲を丁寧にゆっくりと注いでくれる最近ではめっきり減ったスタイルを維持する店。

 しかし、今日はアイスコーヒーにした。

 しばらくするとアイスコーヒーが出された。



 これはうまそうだ。吹き出す汗をタオルで拭いて、貝塚はストローからアイスコーヒーを啜った。芳ばしい珈琲の香り。アイスだかしっかりと感じる珈琲の味。美味だ。

 一服の清涼剤とはよく言ったもので、まさに心が落ち着く味と匂い。店の雰囲気と相まって貝塚は安らぎを覚えた。

 あの頃と変わらない。懐かしい味だ。


「もしかして、貝塚くん?」

 そう言われてふと顔を上げると、見知った顔がカウンターにいた。

「頼子…?」

「驚いた?」

「あ。ああ」

 空いた口が塞がらない。


「まさかこんなところで会えるなんて思わなかったわ」

「い、いや、俺も、というか…」

「今ね、こちらのオーナーに頼んでアルバイトさせてもらってるんだ」

「アルバイトって、お金に困って? いや、そんなわけないか。え、今何やってるの?」

「ふふ。私今フリーなの」

「フリーって?」

「小説家よ」

「ま、まじ?」

「プライベートもなっちゃったけどね」

 そう言ってイタズラっぽく笑う。


 頼子は大学の同級生。サークルが同じだった。確かサークルの木山先輩と付き合っていて、そのまま結婚したはずだ。文学部だった彼女は出版社に就職して…というところまでは知っていた。


「そうなんだ…」

 その後どうなったかはわからない。ただ出版社にいたなら文章を書くことにも納得感はある。まるで店の前の階段を降りる時に、本当にタイムスリップしてしまったような気さえした。


 実はこの店も頼子に教えてもらったのだった。木山先輩と付き合う以前から、頼子は貝塚と仲が良かった。同級生ということもあったが、映画や音楽の趣味が合ったのだった。


 そもそもサークルは芸術研究のサークルだった。映像機器に興味のあった貝塚はその作品にも興味があり、もともと芸術全般に深い造詣のあった頼子と話が合ったのだ。


 授業のあと、何度も喫茶店に行き、興味のあった映画や音楽について話すことが多くなった。なんとなく付き合うことになるんだろうなと思っていた矢先、先輩に猛アタックを受けており、受け入れるつもりだと頼子から打ち明けられたのは、何度目のデートの最中だっただろうか。


「そうか。良かったね」

 としか言えない自分をあの時は家に帰って恥じたものだった。


「なんであの時反対してくれなかったの?」

「え?」

  顔をあげる貝塚。目を逸らさない頼子。一瞬の沈黙。

「なんの話?」

 暫くの沈黙。

「なんでもないよ」

 頼子は笑った。


 間違いない。あの日のことだ。なぜならそれはこの店で打ち明けられたからだ。今座っているカウンターの左奥にあるソファの席。いつも二人で来る時はそこが指定席だった。


 貝塚だって暫くは立ち直れなかった。なんだか裏切られたような気分だった。しばらくサークルも喫茶店も行くのをやめた。


 頼子から、二度ほどなんで来ないのかメッセージが来ていたが、「ごめん忙しくて」と嘘をついた。木山先輩の顔は勿論、頼子の顔も見たくなかった。


「お代わり。熱々のホットで」

「あら、暑いのに殊勝な心掛けね。反省した?」

「は? 何が」

「別に。私ね、ネルドリップうまいのよ」

「そうか、ずっと見てたもんね」

「そうよ。驚かしてあげる」

 頼子はカウンターの中で器用に分銅を使って珈琲豆の量をはかり、ステンレスのポットから熱々のお湯をフィルターに注ぐ。とても細く、ゆっくりと回転させてお湯を注ぐ。

「懐かしいな」

 思わず声が漏れた。頼子は笑っている。こんな時が来るなんて想像もしていなかった。

「はい、ハイブレンドです」

 濃いめの珈琲。



 小さな取手をもって口に運ぶ。鼻元で良い香りが広がる。

 一口啜る。ネルドリップなので程よい温度。焦茶色をした珈琲の表面が光り輝いている。

「美味しい」

「言ったでしょ。美味しいって」

 頼子は笑う。

「そうだね」

 僕は二口目を飲む前にミルクを入れる。

「変わってないわね。二口目からミルクを入れる癖」

 待て待て、なんだか涙が出そうだ。

「そうだったっけ?」

 貝塚はとぼけてみる。

「白々しいわね。そういうのって変わらないものよ」

「そうかな」

「そうよ。でも、嬉しいけどね」

 この感覚はなんだろう。よくわからない。貝塚はまるで大学生に戻ったような気がしている。


「明和大学で講師もしているのよ。私。多彩でしょ?」

「多彩だな。実は僕も首都大学で准教授をしているんだ。去年から」

「あら奇遇ね。同じ先生だったの。あ、でも首都大学ってあの首都大?」

「うん」

「凄いわね弥子。最高学府じゃない」

「そうだね。たまたまね」

「たまたまじゃないわ。専門は?」

「勿論映写機だよ。機械工学と」

「ああ、そうだった。ほんと凄いわね」

 頼子は感心した表情を見せる。


「いらっしゃいませ」

 新たな客が入ってくる。その客と親しげに話す頼子。すっかりこの店でも人気者のようだ。愛想もいいし、良い年だが、新たな魅力が加わっている。当然だろうなと思った。あのサークルでも人気者だった…。


 ハイブレンドを飲みほすと時計は午後2時を指している。そろそろ出ないと講義に遅刻する。

「会計をお願いします」

 貝塚は別の店員に会計を依頼する。


「あら帰るの?」

「これから授業でね」

「そう…」

「また来るよ」

「当たり前でしょ」

「ああ」

  貝塚は笑った。釣り銭を別の店員から受け取り財布を鞄に入れた。


 出入口の扉を開ける。

「またね」

 頼子が背中に声を掛ける。

「ああ」

 貝塚は軽く手をあげて扉を閉める。

 チリンチリンという音がなんだか寂しく聞こえ、なぜかもう頼子には会えないような気がした。後ろ髪を引かれながらも貝塚はきつめの階段を登る。


 きっとこの階段を登るといまの出来事は全て嘘になるのだろう。頼子は元々いなかった。もしかして、階段の上で振り向いたらこの店も消えているのかもしれない。今日はあまりの暑さで脳がやられたのだろう…貝塚はそんな風に感じた。


 階段を登り切ると、やはりうだるような暑さが身体を包む。せっかく引いた汗をまた掻き始める貝塚。溜め息をつく。

 振り返らないほうがいいだろう、貝塚はそう思った。しかし、堪えきれず貝塚は振り向いてしまった。


「やっぱり振り向いた」

 店は消えておらず、かわりにエプロンをつけた頼子が立っていた。

「頼子…」

 頼子は貝塚に近づくと名刺を出す。

「連絡先聞かないなんて失礼じゃない?」

「え、ああ、そうか」

 貝塚も自分の名刺を出した。

 “小山田頼子"

「あれ?」

「言ったじゃない。プライベートもフリーになったって」


「そうか…」

 汗を拭く貝塚。離婚したのか。

「誘っても大丈夫だから」

「え?」

「えっ? じゃないわよ。その先は言わせないでよね」

 頼子は貝塚の高い位置にあるおでこに背伸びしてデコピンをした。


 ああ、そういえば学生時代も良くされたよな…そんな光景を思い出した。


「じゃまたね」

「ああ。またな」

 頼子は颯爽と階段を降りていく。頼子がいなくなった喫茶店の入口はまた昔に戻ったようだ。しかし確かに存在していた。


 貝塚は再び歩き出し駅の入口に向かう。

 昔から夏はなぜか懐かしく悲しい気分になる。


 また会えるだろうか…ぼんやりと考える。本当に頼子はいたのだろうか。やはり信じられない。

 しかし、この手に名刺は確かにある。なんとなく名刺の裏を見た。


「絶対連絡しろよ!」

 頼子の筆跡でそう書いてあった。貝塚は笑った。きっとまた会えるだろうと、確信した。


 どこからか、あぶら蝉の鳴き声がして、同時にひぐらしの鳴き声が聴こえて来た。

 真夏の真っ只中に、密やかに夏の終わりも存在していると、ひぐらしがそう主張しているように思えた。



続。


***

①ラーメン屋

覆麺 智東京都千代田区神田神保町2-2-12
https://tabelog.com/tokyo/A1310/
A131003/13054078/

②喫茶店
カフェ・トロワバグ
03-3294-8597
東京都千代田区神田神保町1-12-1 富田ビル B1Fhttps://tabelog.com/tokyo/A1310/
A131003/13011637/