高校世界史 -2ページ目

高校世界史

高校の世界史の授業で使えるネタを紹介していきます。

劉邦・項羽の部隊が秦に迫ってくると秦の内部では動揺が走りました。始皇帝の死後、宦官趙高が宮中を牛耳っていましたが、各地で秦が敗れているという報が、二世皇帝の胡亥の耳に入りました。
胡亥は、秦が負けていることは、初耳であったため(趙高が意図的に伝えていなかった)、趙高を詰問しようとします。趙高これに対し、先手を取り、二世皇帝の胡亥を殺害してしまいました。
そして、子嬰を新たな皇帝として擁立し操ろうとしたのです。しかし子嬰は、趙高によって操られることを嫌い、趙高を倒し、自ら秦王となりました。


秦王となった子嬰は、すでに覇上にまで迫っていた劉邦の所へで出向き、降伏しました。劉邦は子嬰を許しました。
項羽と劉邦の物語にまた戻ります。登場人物が多いので、授業で扱う際は、冒頭で人物の説明をいれたほうがすんなり理解してもらえるかもしれないです。

反秦を旗印に兵を挙げた楚の項梁(項羽の叔父)ですが、秦の名将章邯の策に嵌り命を落としました。そのため楚の懐王(楚の王)は、項羽を将軍として軍の指揮を任せるようにしました。その後、反秦軍は、楚の彭城を根拠地として定めます。農民出身の劉邦もこの時に彭城へと入りました。体制を建て直した反秦軍は、攻撃作戦を練り軍を二つに分けることにしました。

項羽が指揮する軍と劉邦が指揮する軍に分けます。
そして懐王(楚の王)は「先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とする」と約束しました。つまり、項羽劉邦の2人を競わせようという考えです。

項羽は、圧倒的な強さで、秦軍を破っていきます。
これに対し、劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍は項羽軍に比べて大きく劣る陣容でした。しかし劉邦は、咸陽までの道中にある城の城主を説得するなど極力戦闘は避けました
そのため進軍は項羽よりも早かったのです。

※この個所では、本来、宋義が楚の総司令官に任命されているのですが、説明の簡略化のために授業では、項羽が最初から総司令官ということにしています。
秦の宮中で2世皇帝の胡亥は、連日遊び暮らし、政務の場に姿を現すことはありませんでした。このように進言したのは、宦官の趙高でした。趙高はその立場を利用し皇帝を意のままに操っていました。そして、邪魔になりそうだった丞相の李斯に罪を着せて捕まえ、処刑してしまいます。だが趙高の野望は、それだけに留まらず秦の乗っ取りを目論んでいました。

ある日、趙高は皇帝に見事な馬を連れてきたと進言し、これを宮中に入れました。
しかし宮中に連れられてきたのは、鹿でした。

皇帝・胡亥「これは、鹿ではないのか?」趙高「これは、馬です。」
趙高「そなたたちは、どう見える」
周りの者「鹿に見えます」「馬です」「鹿です」「馬でしょう」

以上のようなやり取りがなされ、趙高はこれは余興で人によってものの見方が変わるものだとその場を収めます。

その後、趙高の命令により、「馬」と正直に答えた者たちは逮捕され、趙高の意見に同調しなかったものとして処刑されました。

ここから生まれたとされている言葉が「馬鹿」とされていますが、真偽のほどは怪しいです。



授業では、見事な馬を連れてきましたの場面で黒板に鹿の絵を描くといいでしょう。
なおかつ生徒にどう見えるか聞いて授業に参加させると盛り上がります。



沛県の農民に劉邦と言う男がいました。この劉邦は、家業の農業もろくにやらず遊んでばかりいました。この劉邦は、酒と女が大好きで労働は、大嫌いという困った人間なのですが、不思議と人から好かれるところがあり、劉邦の周囲にはたくさんの仲間がいました。その後、宿場の小役人(亭長)となった劉邦ですが、相も変わらず遊び暮らしておりました。
そんなある日、劉邦に人夫を引き連れて秦の都咸陽へ向かへという命令が下ります。しかし、労働の過酷さを知っていた人夫たちは、道中次々と逃亡してしまいました。
これでは、監督者である劉邦は、咸陽についても打ち首が決定です。このままでは、罰を受けることになる劉邦は身を隠すことに決め、残っていた人夫の多くは劉邦に従いついていきました。

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生すると、劉邦は、逃亡生活をやめて反秦への旗揚げを行います。この時劉邦は、自らを赤帝の子の末裔として、旗印を赤く染めます。以後は、その拠点となった沛県から沛公と呼ばれるようになりました。


劉邦がいよいよ登場です。ポイントは、宿命のライバル項羽と対比させることだと思っています。項羽と劉邦の長所・短所は正反対。この2人が天下を争う流れになるのが面白いところです。
会稽という町に項羽という人物がいました。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であり、項羽は叔父の項梁(こうりょう)に育てられました。成人した項羽(こうう)は、大男となり周囲からも一目置かれる存在でした。

前209年に起きた陳勝・呉広の乱以来、天下には反秦の気運が高まっておりました。この時、項羽の叔父である項梁は、会稽の郡守を殺し、反秦の軍を立ち上げます。

前回登場した陳勝・呉広の乱は軍の規模が大きくなるにつれ軍のコントロールが難しくなっていきました。この反乱は秦の章邯という将軍に敗北し、逃げる途中で部下に殺されてしまいます。陳勝・呉広の乱が失敗に終わった後に、反秦の中心は項梁・項羽が率いるが中心となっていきました。


この箇所は、項羽を印象付けることが第一です。項羽の合戦での様子や怪力をあらわすエピソードを付け加えてもいいかもしれません。後は、授業で話す際には生徒の混乱を避けるために叔父の項梁の名は出さず、叔父さんとだけ説明しています。