極端な信心・信仰を求める宗教に人生の長い時間を費やした方は、きっと、どこかの時点で苦しいと感じたことがあると思います。たくさんのお金を求められたり、宗教活動に時間を割かれ、家庭や仕事との両立に悩んだり、といったことです。それだけでなく、お子さんがいる家庭では、子供にどういう宗教教育をするかについて、宗教から強く要求があり、嫌がる子供をしつけたり、従わせなければならなかったりという場面が、きっとあっただろうと思うのです。

ただ、長く信じている人は、その教えが正しいと思ったから信じ続けたのであり、それに疑問を抱くことには消極的だと思います。というよりも、強い教えを信者に求める宗教であればあるほど、疑問を抱くことを、とても悪いことだと教えます。極端な宗教は、信者に湧いてくる疑問を想定して、それは宗教の教えに背くことだとあらかじめ伝え、信者の思考を制限しようとするのです。

人間は、自分の考えや感じ方において、自覚できる範囲と自覚しにくい範囲をもっています。いわゆる「無意識」のことです。そこでは、ほとんど自分で気が付けないぐらいのレベルと、何となくわかっているけれど、なかなか気付きにくいレベルとがあります。気付けないものは別としても、何となくわかっているけれど、気付きにくいレベルについては、場合によっては自分でアクセスすることができます。

なぜ気付きにくいのでしょうか。それは、気付くと今の自分にとってやっかいだから、です。気付いたら自分が動揺してしまうとか、嫌な気持ちや罪悪感、恥の感情に見舞われてしまう、というものだからです。これは、人間が普遍的にもっている性質です。

極端な宗教を長く信じている人にとって、「気付きにくいこと」とは何でしょうか?それは、「この宗教を信じて行っていいんだろうか」という疑念だと思います。どうも指導者の言うことに違和感がある、と感じているのに、疑問をもつことは悪いことだ、罪だと教えられていると、そこにストップをかける習慣が無意識のレベルで身に着いています。だから、思い返せば、これまでの長い間に、何度もそんな場面を経験してきたのかもしれません。その度に「罪」というストッパーがかかって、何事もなかったことにされてきたかもしれません。

健康的な人間関係であれば、そんなストッパーなど、そもそも必要なく、思ったこと、感じたことを伝え、話し合えるはずなのですが、極端な宗教では、そのような人間関係を見下します。信者は、『正しい』教えのために個人の感じ方・考え方を否定しなければならないと教えるからです。それが長く信じるほど、身体に染み付いているので、なかなか本当の自分の感じ方に気付けなくなっていきます。

でも、極端な宗教は人間を大切に扱わないので、お金や時間を過剰に要求してきます。だから、心のどこかでは悲鳴が上がっているのです。

もし、あなたが自分の宗教に何か違和感を抱きつつ、これまで見ない振り、聞こえない振りをしてきた自分の感覚があるのだとしたら、まず、そこに気付いてみませんか?それが怖いと感じる理由は何なのか、考えてみませんか?

考えて怖いと思ったら、宗教仲間の意見を聞き、「やっぱり、この人たちが正しい」と安心するかもしれません。最初は、それでいいと思います。ただ、この取り組みを何度か繰り返してみてください。繰り返す中で、考えたときに起こる「恐怖」と、宗教仲間で得られる「やっぱり、正しい」という安心感を比べ、なぜ、そのような状態に自分が陥っているのか、少し落ち着いて考えてみてください。

安心感は得られても、その仲間と一緒の考えでいる限りは、他方であなたが感じている苦しさを繰り返すことになるかもしれません。それでも自分が納得できるか、自分の感覚、感性で考えてみませんか?

同じようなことを感じる人は、あなただけではありません。あなたの宗教だけでもありません。

なお、この勧めに「その宗教が信じていることがおかしい」という意図は全くないことをご理解ください。人間には、何を信じる自由もあるのです。ここで問題にしているのは、「何を信じるか」ではなく、その宗教が「何をしているか」です。信じていることと、宗教が実際に行っていることとは区別し、整理して考えてください。

あなたが自分の納得いく人生を歩めるように、信じるものがあなたを豊かにできるように、祈念いたします。