中谷はお絞りで冷や汗の伝う顔を拭い、口元を拭った。息を吐きながら、のろのろと顔を上げ、楽しむような顔で追加のビールを口に運ぶ高岡の横顔に視線を向ける。
「俺は納得してません」
「いつよこす?」
にやりと酷薄な笑みを浮かべて、高岡が中谷を見た。笑みを裏付けるような醒めた目が値踏みしている。
「一ヶ月後には、少しは形にしてみせます」
「よし。前払いだな…………まだ食うのか?」
蒸籠を数個手元に引き降ろした中谷に、高岡は嫌な顔をした。
「『ジャーナル』の名前を轟かせるネタですから、まだ安いです」
「ふん」
高岡は財布から無造作に数枚の札を抜いた。中谷の上着のポケットに突っ込み、
「俺は忙しいから、後は勝手にやれ」
「…………医者は?」
きょとんとする中谷に肩を竦めて一枚の名刺を取り出す。
「『音楽療法 大月シンフォニア 医師 大月清司』……?」
「そいつは、音楽を聴かせることで心身の問題を解決するらしい」
中谷は高岡の薄笑いに気づいた。
「ひょっとして、これ……」
「『ハレルヤ・ボイス』も音を元にしてるなら、何かヒントがあるかもしれないだろ。それに、『幸い』お前は治療が必要だ。取材は断れても患者は断れないだろうしな」
カウンターを滑り降り、ひょうひょうと店を出て行く高岡の後ろ姿には、壊れかけた部下への同情や思い遣りなどというものは微塵も感じ取れない。利用できるものはとことん利用する、ネタになるなら悪魔とでも取り引きする。『ジャーナル』の編集長は、一番効果的に標的に向かって中谷を弾き飛ばせるチャンスを、ひたすら狙って待ち続けていたのだ。
「……食えねえ」
キィといい、高岡といい、どうして自分の周りはこういう人間ばっかりなんだ、とぼやきながら、餃子を口に押し込んだ中谷は、数十分前まで落ち込んでいた這い上がりようのない穴が、他の人間にとっては取るに足らないちっぽけなものでしかないのだと感じた。
冷たくて容赦がなくて貪欲な世界。
「緩くなってたのは、俺の方か」
『ハレルヤ・ボイス』に惑わされて自分の居場所を見失い、癒しと許しに浸って蕩けていた中谷を、高岡は叩き起こして引きずり出した。
(笙子……)
相手を思えば、体の疼きだけが思いを本物だと伝えてくる。笙子が欲しい。体を繋げて自分の命を注ぎたい。即物的だと言われようが、今の中谷にはそれしか確かめるものがない。
だが、そこへの扉はもう固く閉ざされて、中谷の望むような形で開く可能性は二度とない。『ハレルヤ・ボイス』を暴けば暴くほど、きっと距離はどんどん開くだろう。いつかあの澄んだ瞳が満身の憎悪を込めて中谷を糾弾する日がくるのかもしれない。
つきりと痛んだ胸をごまかそうとビールを注文しかけたがやめた。席から立ち上がり、ふらつく足下に苦笑しながら、それでも一歩ずつ前へ進む。
野良犬に必要なのはいざと言うときに粘れる体力、ただでさえずたずたの体をこれ以上使いものにならない状態にしては、それこそどぶ泥の中で野垂れ死にするしかない。
「ありがとうございました!」
レジの明るい声に送られて、中谷は体を起こした。
(笙子)
自殺者を出しながら歌うことが止められない、至上の歌姫は全身を鎖で縛られている。
『ハレルヤ・ボイス』の謎を突き止め、闇から伸びる鎖の先にある重しを見つけるためには、きっと闇に入るしかない。それこそ、キィにはできない、汚れ役にははまり過ぎるほどはまった仕事だ。
(俺がそれを切ってやる)
中谷は目を細めて街の中へ歩き出した。
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