石川淳志のブログ

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小説はすごい。

 五日の午後、渋谷で小説家のインタビューだった。

 ほんとうにすごい。質も量も。「小説」も、小説を生み出す「作家」も。

 つまるところ人知を超えたゾーンに創作の秘密がある、としか云いようがない。と思う。要するに小説は「苦節」という概念から遠いところに存在している。天賦の才に恵まれているかどうか。

『ディア―ディア―』(2015)

 栃木県足利市で撮影された新作映画。十月に公開される。先行上映会にて。

 三十代らしき三人の兄、弟、妹のひと夏の物語。

 関東で暮らす人は実感しているだろうが、お盆以降の一週間は高気圧が続き抜けるような快晴が続く。今年は雨続きで肌寒く異常で例外だっただけだ。映画の舞台は関東の小都市で八月、それなのにほぼ全編曇天だった。主人公三人の抱える憂鬱を狙っているのだろう。


『流』(2015)

 云わずと知れた直木賞受賞作だ。

 祖父殺害の謎の大枠を設けて、青春小説の暴力、恋、友情、家族、それからあの世の存在、東アジアの現代史、などを惜しげもなく投入した贅沢な長編小説だ。つまり、二十年に一作、との選考委員の評価の作品だ。

 と誰もが思う感想を書いたが、読後は「方丈記」を思い出した。題名の「流」からの発想ではない。

 「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつむすびて、久しくとどまりたるためしなし…」

 無常観であり、センチメンタルだが喪失感であった。


 その背景らしきことも著者が触れているインタビュー掲載の「新刊ニュース10月号」も併せて是非に。

 http://www1.e-hon.ne.jp/content/booknews/interview/2015/author60_i_10.html

『大放言』(2015)

 自慢になるだろうか、今を時めく百田尚樹さんに二度インタビューをしている。もちろん「新刊ニュース」誌で小説にまつわる話を伺った。二度目になると「あ、あの時は…」のような勝手知ったる感じをもってくれたのか、ずいぶん痛快な話をしてもらった。なにしろ出版業界をこき下ろした『夢を売る男』をフィーチャーしたもので。

 とにかく二度お会いして感じたのは徹底したサービス精神の人だ。二度目なぞは涙がにじむほど笑った。話を訊く側が笑い疲れて満足して帰ったのは極めて贅沢な経験だった。もちろん「新刊ニュース」紙面ではオミット!ふふ。


 先ごろの自民党の研究会での沖縄の新聞に対する発言その他、これは呼んだ自民党が悪い。百田さんはサービスするし、笑いを取りに行くのは当然のことなのに。

 云いたいことを書き下ろした痛快無比の『大放言』だ。しかし百田さんがこき下ろさなくてもすでに皆で嗤っている「自分を探すバカ」などもある。

 後半の「我が炎上史」が白眉だ。全面賛成だが数字のデータの根拠を知らせてほしかった。

 ただ一点、≪多くの人が誤解していることだが、「純文学」というのも娯楽小説の一つである。≫(p.119)さすがにこの放言には異論がある。ピース又吉の小説や西村賢太の小説が念頭にあるのだろうか、しかしたとえば古井由吉は娯楽小説としては考えられぬではないか。忘れられつつある作家石川淳は「私の読者は三千人」と云ったとか。純文学作家ならば少ない数だとは思わない。


 ところで著者自身がツイッターで『大放言』のアマゾン評を嘆いていて、保守思想への感情的な反発で炎上だろうかと覗いてみたら、やしきたかじんのノンフィクションへの感情的な攻撃だったのでこれまたたいそう驚いた。

 百田作品に外れなし、コンプリートしたいと思っていたのにこのノンフィクションは未読なのであった。

猛威。

 雨で日本が大変なことになっている。

 メールを一件、電話も一度もらった。さいわいにしてこちらは大丈夫です。

 被災された方々にお見舞い申し上げます。

小説はきらめいている。もちろんおれが読む前から。

 台風で土砂降りの八日午後、神楽坂で小説家のインタビューをおこなった。神楽坂って版元バレバレか。
 ああ、小説は素晴らしい。
としみじみ感じました。もちろん、おれが読む前から。だから幸運なのだ。表現する人も、燦然たる存在だ。

『Yの木』(2015)

 小島信夫の「汽車の中」、

 大瀬東二の「ガラスの壁」、

 カミュの「異邦人」、そして『ペスト』

 金鶴泳の『凍える口』、

 『羊をめぐる冒険』

 ウィーリー・ラッセルの『リタの教育』、

 『さようならギャングたち』、

 または江戸時代の文献として『藤岡屋日記』、


 以上の小説、文献が引用あるいはプロットが紹介されているのは表題作の中編小説「Yの木」である。一節だけの紹介、あるいは題名だけなら『幸福論』をはじめどれだけ挙げられているのだろうか。

 「Yの木」とはいったいどんな小説なのか。

 冒頭は主人公「彼」の日課だろうか、朝九時、犬の散歩の場面だ。犬は十四歳、人に換算すると何歳なのか、昨年心臓病を患い気管支炎をおこしている。「彼」は四年前に妻を亡くした六十八歳だ。散歩道、緑道に出る手前に生えている幹の先が二股に分かれていてアルファベットのYを連想させる木を二年ほど前から目に止めるようになった。Yの木を見て彼は、

 ≪ちょうどいいかもしれない≫

 とつぶやく。

 うっかりすると読み流してしまいそうな文だ。何にちょうどいい、のか。見え隠れする「彼」の内面とは。「彼」は≪「精神などといういかがわしい存在」をフル回転させて、生活の糧を得ることに汲々としている≫と書かれている。つまり純文学の専業作家である。とは云え、当然私小説でも自伝的小説でもない。

 作者の平明な筆致に寄り添って読み進めていくがよい。


 小説と云う表現がいかにきらびやかな人口の美をまとっているかを堪能できるし、「彼」に託した小説論、小説作法が判るはずだ。

 そして読み終われば、作品に引用される小説の一節を誰もがつぶやくに違いない。

 

 ≪一同、脱帽!≫

 と。

 

似ている。

 芸人の

 とにかく明るい安村と

 歌舞伎役者の

 坂田藤十郎は似ていますね。


 どおりで安村氏にどことなくノーブルな雰囲気があるし藤十郎丈にはフランクなムードが漂っている、ってまさか。

 一方は「安心してください、…パンツ、履いてますよ」と云い。

 また一方は、ホテルの廊下でガウンをはだけて密会の女性に「履いてません」とは云わなかったと思う…。

 

昭和の貌。

 先週、柄にもなく高校野球の決勝戦をテレビで見た。

 仙台育英に肩入れしていたが結果はご存知の通り、東海大相模だった。

 小笠原という選手の腰の大きさ、ふくらはぎの太さ、現代のスポーツ選手には見えなかった。いやバッターボックスに立つ選手が(アップになるので感じたことは)ことごとく一重の小さい目で、古い日本人の風貌を思わせた。

 と云うか高校生が戦前の日本兵に見えて仕方がなかった。坊主頭だからだけではないはずだ。高校野球という特殊な「舞台」だったからだろうか。

 

 泥だらけの選手たちを見て、これから何億も稼ぐのだろうな、と云う別の感慨も。

『痴者の食卓』(2015)

 意外だろうか、西村賢太の文章は音楽だ。

 小説であれエッセイであれどれもこれも文章はリズムに乗せて読み進めることができる。これは、おそらく天性のものだ。と云うのも師匠の藤澤淸造の『根津権現裏』は何度チャレンジしても文庫二ページで断念してしまうのだ。『根津権現裏』の、怨念がほとばしるのたうつような長い文章は何が書かれているのか、読み取りにくさがある。

 音楽性の残りは寄席で馴染んでいる落語などの話芸から来るのだと思う。

 それから思考の論理性だ。長いセンテンスのくねくねした文章も迷うことがない

 小説でも主人公貫多がどれほど悪態をついても、思考の明晰さがあるから存外に後味は悪くない。


 短編六作、おなじみの貫多と秋恵の同棲生活を綴った“秋恵もの”五作と、貫多がテレビ番組に出演し感慨にふけるエピソード一作。どれを読んでもどこから読んでも楽しめる一冊。

 該書のインタビューも載った「新刊ニュース9月号」も是非に。…藤澤淸造の『根津権現裏』を読めなかった無念さが残る。

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