内田樹(うちだたつる)格言集

内田樹(うちだたつる)格言集

思想家、武道家で、著書も多い神戸女学院大学名誉教授内田樹先生の格言、警句を項目ごとに整理したブログ。
同氏が著作権を放棄しているブログ、ネット記事から選んでいます。

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私自身は「リンガ・フランカ論」でも書いたように、国際共通語の習得は日本人に必須のものだと思っている。ただ、その習得プロセスにおいては、決して「言語運用能力」と「知的能力」を同一視してはならない、ということをルール化しなければ「植民地主義的」なマインドと「買弁資本的おべんちゃら野郎」を再生産するリスクが高いということは繰り返し強調しておかなければならない。
(内田樹の研究室 英語公共語化について 2010年6月24日)

英語運用能力と「報償」の相関をダイレクトなものにしたことによって、日本人の英語運用能力の劣化は生じたと私は考えている。
(内田樹の研究室 英語嫌いを作る方法 2010年7月21日)

英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。
日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。
(内田樹の研究室 英語嫌いを作る方法 2010年7月21日)


英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。どちらも言語というものを舐めている。 
(内田樹の研究室 言語を学ぶことについて 2013年3月9日)

外国語なんて大きくなってからで十分である。子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。
(内田樹の研究室 小学生に英語を必修させる必要があるのか 2008年2月17日)

外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
(内田樹の研究室 小学生に英語を必修させる必要があるのか 2008年2月17日)
野生の人たちは本質的にブリコルール(ブリコラージュの精神を持つ人)である。彼らの世界は資源的には閉じられた世界である。「ありもの」しか使えない。通販で取り寄せたり、コンビニで買い足したりすることができない。それゆえ、ブリコルールたちは「道具」の汎用性、それが蔵している潜在可能性につよい関心がある。
(内田樹の研究室 ブリコルールの心得 2009年8月18日)

30年間ずっとブリコラージュのことを考えてきた。そして、ブリコルールたちは「先駆的な知」のたいせつさを教えているのではないかと思うに至ったのである。
(内田樹の研究室 ブリコルールの心得 2009年8月18日)

船が座礁したときに、「誰のせいでこんなことになったんだ」と他責的な文型でことばを連ねても事態は改善されない。それより、手持ちの資材で「座礁した船」をどうやって動かすか考える方が前向きである。ブリコラージュというのは、こういう「あきらめ」方のひとつの様態でもある。
(内田樹の研究室 リメディアルな1日 2005年10月13日)

「国民国家は擬制であり、私事である」ということをわきまえた上で、なおかつ私たちにはさしあたりそれ以外の選択肢がない、さて、これをどのように気分のよいものにすべきか、とまずは手元足元の工夫から始める人のことを「成熟した市民」と呼ぶ。
(内田樹の研究室 「リアリスト」に未来はあるか 2012年4月4日)

どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
(内田樹の研究室 特殊な能力について 2011年1月20日)

※ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。フランスの文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。
自立というのは現にどのように他者とわかちがたく共生しているかの問題である。
(内田樹の研究室 一人では生きられないので死んでもらいます 2008年3月7日)

人間は一人では生きられないように設計されている。「一人では生きられない」から共生するというのが人間のデフォルトである。そして、「一人では生きられない度」の高さがその人間の成熟度と相関していると私は考えている。
(内田樹の研究室 一人では生きられないので死んでもらいます 2008年3月7日)

「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである。それは自分もあまりお金をつかわないし、人にもつかわせない人、ということである。
(内田樹の研究室 大人への道 2010年4月22日)

「子どもが邪魔だから子どもを切り捨てる」というのは「子どもの発想」だからである。大人はそんなふうには考えてはならない。子どもを大人にする方法について考える。子どもを大人にする方法はひとつしかない。それは「大人とはこういうものである」ということを実見させることである。
(内田樹の研究室 大人への道 2010年4月22日)

「ひとりで生きるため」に努力するよりも、「共生のためのスキルを高めるため」に努力する方が生き延びるチャンスが高いということをアナウンスしているだけである。
(内田樹の研究室 「大反論」に反論(じゃないけど) 2010年4月27日)

自立の最低限の要件は「異性のパートナー」「党派的同志あるいは〈兄弟盃〉をかわしたパートナー」そして「顧客または弟子または支援者」の三つのカテゴリーの他者に支えられていることである。
(内田樹の研究室 一人では生きられないので死んでもらいます 2008年3月7日)
「誰からも敬意を持たれない。誰からも期待されない。誰からも愛されない」というメンタルな欠落感に陥った人にパンとベッドを与え、慰めと癒しをもたらすどのようなセーフティネットがありうるのだろう。まず「家族」を考えるのがふつうだろう。
(内田樹の研究室 親密圏と家族 2008年10月5日)

家族は相互に迷惑をかけているか、かけられているかいずれかであり、赤ちゃんとして迎えられてから、死者として送り出されるまで、最初から最後まで、全行程において、そのつどつねに他のメンバーと「非対等」の関係にあるのである。家族において「対等」ということはありえない。
(内田樹の研究室 親密圏と家族 2008年10月5日)

家族の解体も、社会性の喪失も、「家族がいなくても、社会的能力がなくても、生きていける」という事実が周知されたことの結果である。私はこれを戦後日本の60年の平和と繁栄の輝かしい成果として言祝ぐべきだと思う。ただ、家族もいないし、社会的能力もないし、消費するだけで何も生産しない人々が一定数以上増えると、社会のキャリング・キャパシティに限界が来る。そのときには、その人たちにも路上で餓死する可能性が出てくるだろう。社会的なふるまい方の原則はどんな場合も同じである。それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも生きていけるような生き方をする」ということである。
(内田樹の研究室 少子化と家族解体 2006年11月11日)

家族全員が平等で、お互いを理解し合い、愛し合い、あらゆることを相談し合い、決して秘密を持たず、互いの欲望を受け容れ合う。それは違うだろうと私は思う。
(内田樹の研究室 父親の悲しみ 2010年5月9日)

家族は社会組織の基礎であるそれゆえ、例外的強者でなくても、例外的に知性的でなくても、例外的に倫理的でなくても営むことができる。そのような「平凡な人間」が営む場合の方が「むしろうまくゆく」ように作られている。
(内田樹の研究室 父親の悲しみ 2010年5月9日)

「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
(内田樹の研究室 生きていさえすればいい 2007年10月13日)
(大瀧詠一さんは)音楽や映画について、信じられないほど広く深い知識を持っているだけでなく、ふつうの人は気づかないものごとの関係を見出す力において卓越した方でした。2歳違いですが、久しく「師匠」と呼んでいました。
(内田樹の研究室 大瀧詠一師匠を悼む 2014年1月4日)

私は大瀧詠一さんの音楽史こそは(ミシェル・フーコーを学祖とする)構造主義系譜学の日本における最良の実践例の一つだとつねづね考えてきました。
(内田樹の研究室 大瀧詠一の系譜学 2013年12月31日)

大瀧詠一さんの音楽史の方法は構造主義系譜学の方法を実践している。「構造主義系譜学」とはどういう方法のことなのか。それは「今・ここ・私」を中心としてものを見ることを自制せよ、ということです。系譜学的思考の第一条件は何よりもまずこの「節度」です。
(内田樹の研究室 大瀧詠一の系譜学 2013年12月31日)

大瀧さんはラジオ放送のときに、きびしい口調でこのリスナーの自己中心性をたしなめました。おのれにとって「自明」であり「自然」と思えることを、そのまま「現実」と思い込まないこと。自分の「常識」を他の時代、他の社会、他の人間の経験に無批判的に適用しないこと。それが系譜学者にとって、第一に必要とされる知的資質です。
(内田樹の研究室 大瀧詠一の系譜学 2013年12月31日)

『幸せな結末』は「髪をほどいた君のしぐさが 泣いているようで胸が騒ぐよ」という歌詞で始まるが、この「つかみ」のところで大瀧さんは彼が出すことの出来るもっともセクシーな音韻である「nga」の鼻濁音を二回用いている。これは「狙ってますよね」という私の質問に「にやり」と笑った大瀧さんは、実はこの歌詞のキモは最初の「ka」の音にあるということを説明してくださった(硬質な音感をもつ「ka」から始まる日本語の楽曲は少ないのだそうである)。音楽の分析において和音進行や歌詞についての研究は無数にあるが、音声・音韻の持つフィジカルな力に着目したものは少ない。
内田樹の研究室 声の呪:月光仮面・大瀧詠一・ブルース・リー 2005年8月23日)
自民党の改憲ロードマップは2013年の春、ホワイトハウスからの「東アジアに緊張関係をつくってはならない」というきびしい指示によって事実上放棄された。でも、安倍政権は改憲の実質をなんとかして救いたいと考えた。そして、思いついた窮余の一策が解釈改憲による集団的自衛件の行使と、この特定秘密保護法案なのである。
(内田樹格言集 特定秘密保護法案について 2013年11月8日)

安倍政権の狡猾さは、この特定秘密保護法が『果されなかった改憲事業』の事実上の『敗者復活戦』でありながら、アメリカのつけた『中国韓国を刺激するな』という注文については、これをクリアーしていることにある。まことに気鬱なことであるが、日本の民主化度を『東アジアの他の国レベルまで下げる』ことは世界的に歓迎されこそすれ、外交的緊張を高める可能性はないのである。
(内田樹格言集 特定秘密保護法案について 2013年11月8日)

次の国政選挙までに政権は解釈改憲による集団的自衛権行使(つまりアメリカと共に海外への軍事行動にコミットすること)をできれば実現し、その過程でのアメリカとの交渉や密約をすべて「特定秘密」として完全にメディアからブロックするでしょう。多くの人たちは前の民主党政権に対してしたように「自民党が暴走したら、選挙でお灸を据える」ということができると信じているようです。僕はそこまで楽観的になれません。そのような自由な選挙の機会がもう一度巡ってくるかどうかさえ、僕には確信がありません。
(内田樹格言集 「街場の憂国論」号外のためのまえがき 2013年12月11日)

特定秘密保護法案は、安倍自民党と彼に与するグローバリストたちが画策している「国家の株式会社化」プロセスの一環である。取締役の選出を従業員が行ったり、役員会の合意事項に労働組合の承認が必要であったり、外部との水面下の交渉やさまざまな密約について逐一全社員に報告する会社は存在しない。株式会社は一握りの経営陣に権限も情報も集中する上意下達システムであることで効率的に機能するのであって、従業員の過半数の賛成がないと次の経営行動ができないような会社は存在しない。だから、「国家の株式会社化」とは端的にデモクラシーの廃絶を意味する。
(内田樹格言集 特定秘密保護法案について(その3) 2013年11月22日)

情報管理というのは法律で行うものではなく、「常識」で行うものである。秘密指定を拡大し、厳罰で臨んでも、「自分が何をしているのかよくわかっていない」非常識な公務員が制度的に生まれ続けるシステムを温存する限り、情報管理は永遠にできない。
(内田樹格言集 特定秘密保護法案について(その3) 2013年11月22日)

今後ネット上での秘密漏洩の捜査能力を飛躍的向上させるためには大量の人員(秘密漏えいトレーサー)を配備する必要がある。大量の「秘密漏洩トレーサー」を雇用するためには膨大な人件費支出が予想される。誰がこのコストを負担するのか。国家予算の相当部分を投じてもたぶん「もぐらたたき」以上の効果をもたらさないこの作業はどの省庁が引き受けるのか。たぶん、政府は、この法律を実効的に運用しようとしたら、国家予算の相当部分を「覗き」行為に投じなければならなくなるということを想像していない。悪知恵は働くが、根本的には頭の悪い人たちである。
(内田樹格言集 特定秘密保護法案について(その3) 2013年11月22日)
日本が集団的自衛権を行使するというのは、政治史的に見てありえない想定です。これまで集団的自衛権が行使された実例を見ればわかります。1960年代に始まったアメリカによるベトナム戦争、ソ連によるハンガリー(56年)、チェコスロバキア(68年)、アフガニスタン(79年)への軍事介入など、大国による勢力圏への武力干渉の事例ばかりです。日本のような「勢力圏を持たない」国が行使するような筋のものではありません。
(内田樹の研究室 赤旗日曜版のインタビュー 2014.3.16)

(アメリカが日本の防衛を担うだけである)片務的な日米安保を放置しておいて、集団的自衛権を行使するというのは法理的に矛盾しています。アメリカに「手伝いに来い」と呼ばれたときだけ自衛隊を出すという約束なら、それは「集団的自衛の権利」の行使ではなく、「集団的自衛の義務」の履行と呼ぶべきでしょう。言葉は正確に使ってほしい。
(内田樹の研究室 赤旗日曜版のインタビュー 2014.3.16)

集団的自衛権行使について、それを政府解釈に一任させようとする流れにおいて、安倍内閣はあらわに反立憲主義的であり(彼が大嫌いな)中国と北朝鮮の統治スタイルに日ごと酷似してきていることに安倍支持層の人々がまったく気づいていないように見えるのが私にはまことに不思議でならない。
(内田樹の研究室 法治から人治へ 2014.4.18)

私は政治的信条の重みは語る人間がその信条にどこまで身体を賭けているかによってかたちづくられると思っている。九条の改訂を求める人々は「戦争をしてもいい条件」をクリアーにすることをめざしている。その場合は、政論を語る人間は「戦争をしている自分」を勘定に入れる必要があるだろう。
(内田樹の研究室 ミリオンダラーベイビーと憲法9条 2005.4.6)

「自衛隊と憲法の不整合を解消したい」と主張する人々に訊ねたい。「憲法と自衛隊の存在が不整合であることから得られた利益」(これは歴史的事実としてすでに証明されている)よりも「整合的であることから得られる利益」(これは非現実にかかわることであるので、予測を語るしかない)が大であるとする論拠を教えて頂きたい。だが、私の知る限り、「憲法と自衛隊の整合の必要」についてうるさく主張する人間の中に、整合性を得ることが「戦後60年間の日本の平和と繁栄」以上の何をもたらしたはずなのかを「条件法過去形」で推測し、これから先の日本にどのような素晴らしいことをもたらすのかを「未来形」で予言する作業に知的資源を投資する気のある人はどこにも見あたらない。彼らはただ呪文のように「整合性がないのは、おかしい」というだけである。
(内田樹の研究室 憲法記念日なので憲法について 2005.5.3.)
日本が外交的に国際社会で侮られているのは事実であるが、それは軍事力の裏付けがないからではない。国際社会で「日本の外交戦略を拝聴して、ぜひその叡智を掬したい」という態度を保っている国はきわめて少ない。それは日本が軍事力に劣っているからではない。国際社会に向けて発信すべきいかなる「ヴィジョン」も有していないからである。
(内田樹の研究室 「日本はどこへ行くのか」 2009.8.6)

核武装したとしよう。さて、その上で日本はいったい何を世界に対して告げようというのであろうか。どのような「あるべき世界のヴィジョン」を語るつもりなのであろうか。「これで北朝鮮のミサイルがきても報復できるぞ」「中国が東シナ海のガス田に手を出しても韓国が竹島を占領しても報復するぞ」と世界に向けて誇らしげにカミングアウトしたいという気持ちはわからないでもない。けれども、それを聴いて「ああ、すばらしい。『やられたら、やりかえせ』これこそ世界が待望していた21世紀の国際社会を指導する理念だ」と思ってくれる人が世界に何人いると思っているのか。
(内田樹の研究室 「日本はどこへ行くのか」 2009.8.6)


日本が「仮想敵国」に対して十分な防衛力を備えていないというのは事実かもしれません。でも、だからと言って、その脆弱な防衛力につけこんで、中国や北朝鮮が日本に侵入し、軍事的に支配しようとしたときに、その行為を支持する国は国際社会に存在しないはずです。「国際紛争の解決の手段としての武力による威嚇と武力の行使を放棄した国」に武力侵攻した国には、どう言い繕うおうとも、倫理的な大義名分がないからです。
(凱風館日乗 2013.11.01. 第18回 凱風館日乗)


日本は憲法九条によって、周辺のどの国も「個別的自衛権の発動」という言い分を封印してきました。この「普通の国」に対する「普通じゃない国」の倫理的優位性が日本の安全を担保してきたということを改憲派の人たちは決して認めません。
(凱風館日乗 2013.11.01. 第18回 凱風館日乗)
まず自分の身銭を切って、小さいサイズの「ここだけはものごとの条理が通る空間」を手作りしてゆく。そういう小さな「まともな共同体」をゆるやかに連携して、だんだん拡げてゆく。そういう手だてが迂遠にみえるけれどこの社会を人間的なものにするためにはどうももっとも効率的なものらしいということは現代日本人にもだんだんわかってきているのではないでしょうか。
(凱風館日乗 2013.11.01. 第18回 凱風館日乗)

ひとりで生きていれば、お金や能力を失い、老い、病んでしまえば社会の最下層に転落するリスクを負うことになる。そのリスクを回避するためには、集団成員が相互に支え合い、支援し合う仕組みを作る他ありません。集団に帰属してさえいれば誰でも(お金がなくても、能力がなくても、老いていても、病んでいても)人間としての自尊感情を高く持って、愉快に暮らしていける仕組みが必要です。
(内田樹の研究室 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」韓国語版序文 2014.8.19)

相互・相互支援の共同体が整備されてしまうと、経済活動は停滞する怖れがあります。家事労働や介護や教育など、それまで原子化していた市民がしかたなく市場でお金を出して買っていたものが共同体に属していると「あ、私がやっておいてあげるよ」という隣人から無償サービスとして提供される可能性があるからです。「代わりに今度、なにか頼むから」で済んでしまう。これは市場経済にとっては大きなダメージになります
(内田樹の研究室 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」韓国語版序文 2014.8.19)

人間的時間を基準にして、政策の適否を判断する。人間の身体的欲求に準拠して、生産や流通のありようを決定する。生身の身体を「価値の度量衡」に据える。そういう「尺度としての身体の復権」の動きがこれから社会のあちこちから同時多発的に湧き出てきて、それが「アンチ・グローバリズム」の滔々たる流れを形成することになるのではないか。なんだか、僕にはそんな気がします。
(凱風館日乗 2013.11.01. 第18回 凱風館日乗)

支援を求めている人にはいろいろなかたちがあります。物質的に困窮している人もいるし、成熟したいのだけれどメンターがいない人もいるし、仕事を探しているけれど見つからない人もいるし、病み、傷つき、癒しを求めている人もいるし、危機に瀕していて救助を求めている人もいる。それらの「困っている人たち」それぞれに適切な支援がなされる仕組みを作りましょう。
なんだか当たり前すぎて、小学生でも言えそうな話ですけれど、この「小学生でも言えそうな話」を実現するために政治家も官僚もメディアも指一本動かす気がないということに僕は愕然としています。
(内田樹の研究室 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」韓国語版序文 2014.8.19)
グローバリズムというのは、「誰にでもわかるもの」を基準にして、すべての価値を考量することである。「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」ようなものは、グローバリズムの風土では「存在しないし、存在してはならない」のである。
(内田樹の研究室、人を見る目 2008年11月3日)

現在のグローバル企業の多くは、株主も経営者も多国籍化しており、生産拠点は人件費の安い国に置き、法人税も税率の低い国に納めて租税回避することが常識化している。その意味で、グローバル企業はもう「○○国の企業」と言うことができなくなっている。
(内田樹の研究室、私の憲法論 2013年7月12日)

グローバル企業は、資本・商品・情報・人間がいかなる障壁にも妨げられず、超高速で移動する状況を理想とする。だから、グローバル企業にとって最大の妨害者は国民国家だということになる。
(内田樹の研究室、私の憲法論 2013年7月12日)

安倍自民党も野田民主党もグローバリスト政権という点では選ぶところがありません。たぶん無意識にでしょうけれど、彼らが目指しているのは「国民国家の解体」なのです。
(内田樹の研究室、憲法記念日インタビュー 2013年5月4日)

実質的には「無国籍企業」でありながら、グローバル企業は「日本の会社」であるという名乗りを手放さない。あたかも世界市場で韓国や中国等の企業と「経済戦争」を戦っており、日本国民はこれらの企業が国際競争に勝ち残るために「奉仕する義務」があるかのような語り方をする。いやしくも日本国民なら日本を代表する企業の活動を全力で支援すべきではないのか、と。
(内田樹の研究室、私の憲法論 2013年7月12日)

自民党草案で私権の制約条件が削除されたのはこの一カ所だけである。草案があらゆる私権について付している「公益及び河の秩序」による制約も、居住・移動・職業選択の自由についてだけは課されていない。なぜか。それはこの草案が、国境を超えて自由に移動し、転職を繰り返す生き方を「絶対善」だと見なしているからである。それが仮に「公共の福祉」に反することがあっても、「障壁を超えて移動する自由」は擁護されなければならない。それが自民党草案の本音なのである。
(内田樹の研究室、私の憲法論 2013年7月12日)

改憲草案は遠からず二種類の人間たちに日本社会が二極化することを想定している。一方は国民国家の制約を逃れて、ボーダーを越えて自由に世界を行き来するグローバリストたちがいる。この「機動性の高い人々」が日本社会における上層を形成する。他方に圧倒的多数の「機動性の低い人たち」がいる。日本列島から出ることができず、日本語しか話せず、日本に土着したかたちでしか生計を営むことができない人たち、彼らが下層を形成する。
(内田樹の研究室、私の憲法論 2013年7月12日)

グローバル人材というのは、これまでもあちこちに書いてきた通り、「根を持たない人間」のことです。そのために、親族を持たない、地域共同体に属さない、いかなる中間共同体にも属さないということが必要になります。「あなたに抜けられては困る」という人たちがまわりにいては困る。「あなたがいないと暮らしていけない」という人がいたら邪魔で仕方がない。だから、そういう「係累」や「扶養家族」をできるだけ持たないことが「グローバル人材」であるための条件になります。
 (凱風館日乗 2013.6.25. 第8回 凱風館日乗)

 10歳くらいでひとりぼっちで外国にやられて、言葉もろくに通じないところでがんばっ
て暮らして、ようやく友だちも出来て、その土地の仕組みにもなじみ、そのローカルな文化にも親密な感じを持てるようになったところで、「さあ、日本に帰って一流企業に勤めろ」と言われても、困るでしょ。だいたい、帰ってこいという日本社会は「この国はろくでもないところだから、こんなところで学校教育を受けたらいいことがない」という烙印を押されて国なわけでしょ。海外で勉強している間も、その苦しみに耐えるために、子供自身「ここで勉強できる自分は日本にいる子供たちよりずっと幸福な身の上なんだ」と自分に言い聞かせてきたわけです。
(凱風館日乗 2013.10.19. 第17回 凱風館日乗)

親としては大金を投じて「ドメスティックな格付け」を上げるために子供を海外にやったのに、子供はいつのまにかアジア無宿になってしまいました・・・というような話がこれからいくつも聞かされることになるだろうと思います。親の方は「バカ」で済みますけれど、子供さんが気の毒ですよね。
(凱風館日乗 2013.10.19. 第17回 凱風館日乗)

「アンチ・グローバリズム」の諸潮流の特徴が「なんとなくオールデイズ」だということを上に書きました。この「オールデイズ」感は「モノラル録音の、一発採りの、50年代ポップスのアナログ盤」を聴いているときの感じに似ています。そこにはたしかに生身の人間の身体があるということが実感される。
(凱風館日乗 2013.11.01. 第18回 凱風館日乗)