イチョウ
御堂筋の街路樹(並木)が銀杏であることが、イチョウが府の樹である最大の所以であろう.大阪府以外にも東京都や神奈川県の木でもある。市の木としてイチョウを指定するところは全国20市以上東京都のシンボルマークはTの字を示す。イチョウではない。十三公園のイチョウ背後に見える高架は、公園の東側境界に沿って走る国道176号線のバイパス公園の南側には淀川通を隔てて北野高校がある。その南は淀川。銀杏の落葉Wikipedia:イチョウ(銀杏[3][4]、公孫樹[3][4]、鴨脚樹[3][4][5]、学名:Ginkgo biloba)は、裸子植物で落葉性の高木である[6]。日本では街路樹や公園樹として観賞用に[6][7][8][9]、また寺院や神社の境内に多く植えられ[6][7][8]、食用[7]、漢方[10][11]、材用[12]としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)[13]、ギンナン(銀杏)[4]やギンナンノキ[14]と呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指す[9][15]ことが多い。街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり[9]、特徴的な広葉を持っているが広葉樹[註 2]ではなく[16]、裸子植物ではあるが針葉樹ではない[16]。世界で最古の現生樹種の一つである[10]。イチョウ類は地史的にはペルム紀に出現し[17][18]、中生代(特にジュラ紀[19])まで全世界的に繁茂した[7][18][20]。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世の[18]山口県の大嶺炭田からバイエラ属Baiera[21]、北海道からイチョウ属のGinkgo adiantoidesHeer.などの化石が発見されている[22]。しかし新生代に入ると各地で姿を消し日本でも約100万年前に絶滅したため[17]、本種Ginkgo bilobaL.が唯一現存する種である[18]。現在イチョウは、「生きている化石」[23][24]として国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種(Endangered)に指定されている[1]。原始植物としてのイチョウの受精メカニズムは特異で、シダ類やコケ類と同様に動く精子が卵に向かって泳いでいき受精する[25]。種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している[3][9][26]。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する。銀杏(ギンナン)もいっぱい落ちている。イチョウ属の学名Ginkgoは、日本語「銀杏」に由来している[18][32][33]。英語にもginkgo/ˈgɪŋkoʊ/として取り入れられている[註 3][32][33][34]。ほかにも男性名詞として、ドイツ語Ginkgo, Ginko/ˈgɪŋko/[35][36]やフランス語ginkgo/ʒɛ̃ŋko/[37]、イタリア語ginkgo[38]など諸言語に取り入れられている。イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で『日本誌』の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルによる『廻国奇観(諸国奇談、Amoenitatum exoticarum)』(1712年)の「日本の植物相(Flora Japonica)」[39]において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた[18][40]。仏陀来る日まで銀杏の木の裸 高野ムツオ 雲雀の血明るさの暗さの銀杏黄葉かな 行方克己 知音銀杏落葉拾ひためる子を待つてをり 原田種茅蹴ちらしてまばゆき銀杏落葉かな 鈴木花蓑榧の木のあびける銀杏落葉かな 金田眸花一色に大樹の銀杏落葉かな 小沢碧童敷きつめし銀杏落葉の上に道 池内たけし銀杏落葉城の裏道明るうす 池田三斗史銀杏のぼたりと不治の病なる 辻田克巳銀杏得む風待ち婆と座を共に 角川照子銀杏にちり~の空暮れにけり 芝 不器男銀杏を干して戒壇院の昼 清武夫美子銀杏はじくこの炉見すてし父の齢 古沢太穂銀杏ちる兄が駈ければ妹も 安住 敦銀杏散るまつたゞ中に法科あり 山口青邨中村惕斎によって寛文6年(1666年)に著された図入り百科事典(類書)『訓蒙図彙』(きんもうずい)の銀杏の項商店街の中にある寺 長安寺 真宗 画像の正面奥に親鸞像が見える。かつてこの辺りに川があったのであろうか。あるいは近くにあった橋名標示石が移築されたのか。商店密集地なので樹木は多くはない。楓紅葉歌碑がある。「扉をあけて阿弥陀如来もみそなはせうき世の春の花のさかりを」賢太郎と記されているらしい。この長安寺の阿弥陀如来を詠ったものらしい。 富坂賢太郎は明治24年に生まれ、幼いころから苦労の連続でした。昭和2年には古着屋を開きましたがうまくいかず、そのうえ空襲で店は全焼し、妻は病死、長男は行方不明、二男は自殺と不幸が重なりました。昭和37年には賢太郎自身も車にはねられるという不運続きの生涯で幕を閉じました。 しかし、賢太郎は絶望したり、人を恨んだりはせず、無名ながら歌をこよなく愛して精進を重ね、その人柄の表れたすがすがしい歌は、後世に残るものとなりました。「淀川区」のHPからの引用歌碑は賢太郎の死後、昭和43年に彼が所属した「あけび歌会」によって建立十三は古い町。いたるところに祠がある。由来書由来書にある「堀城」について正確な場所は不明のよう。城は上に紹介した十三公園にあったと推定されているがウィキペディアによれば、堀城もしくは中嶋城は史料に多く記述されているが、大阪市の中心部にあり遺構や城の場所が明記された石碑は存在せず、城郭、推定地については不明な点が多い。『日本城郭大系』によると、「永禄9年(1566年)に細川藤賢が築城」との記載が見受けられるが[1]、深井の合戦(永正8年(1511年))や桂川原の戦い(大永7年(1527年))が記載されている『細川両家記』等には既に堀城、中嶋城と記述されており、砦のような城が築城されていたと思われ、その後に細川藤賢が本格的な城郭を築いたのではないかと考えられている。わが家の棉のドライフラワー。健在。