限定記事
前号より
気を失ってしていたのは僅からしく「どうなってるんだ」と起き出したそうな。
皆さんが私の身の周りを始末してくれ、飲み友の営業部長が下の救急車の隊員に
病院搬入を頼みに行ったら「お前より皆ひどいや、会社の車で行こう。」と自ら
運転してくれ顧問契約の聖路加病院へ。
聖路加病院到着時既に混雑していました。
事件当事電車が停車した築地駅がすぐ近くですから。
そのうちサリンまき散らしという情報が入りその治療法になりました。
一般の外来は中止され全ての医師看護師が押し寄せる患者に対応されました。
病室は勿論待合室、廊下も病室に早変わりです。
大病院の聖路加といえど今まで経験したことがないことでしたでしょうが
素晴らしい対応力に驚きました。
何千という患者用のサリンの除去点滴剤とそれを吊るす各自一本ずつの点滴柱、
恐らく聖路加ではそんなに予備はなかったでしょう。
製薬会社や他の病院から急遽かき集めたのでしょうが見事な手際でした。
非番の関係者も総動員されたようです。
危機管理しっかり出来ていましたね。
営業部長が心配して付き合ってくれながら「何だ、その瞳は?」
そう、サリン特有の症状 縮瞳 になりました。
縮瞳(しゅくどう)・・・字の如し、黒目(瞳孔)が縮んで小さくなる症状です。
私の場合は2mmぐらいになりました。
ですから駅から会社への道すがらが
<<明るいはずの外界が夕暮れ時のように薄暗(前号)>> く感じられたのでした。
やはり目が見えなくなるのではと心配でした。
でも正常になって考えたことは人体ってなんて素晴らしいのだろうという事です。
最後の最後まで頑張って2mmになっても視力を確保してくれたのです。
私の場合は視力消滅限界ギリギリだったのでしょうね。
あと1ccでもサリン吸ってたら目が不自由になっていたかもしれません。
点滴している間は・・・テレビ実況観るしかやることありません。
私の名前が何度も放映されていました。
まだ携帯電話という時代ではありませんでしたが携帯電話初期から持っていたので
(以前携帯電話1号機の記事済みです。)会社に何度も連絡したり周りの被害者に
貸したりでそのうち電池切れで自宅に連絡できなくなりました。
院内の公衆電話はいつ順番が来るかという待ち状態でしたし点滴しながら街中
なんか行けません。
家族に連絡できません。
(その後の笑い話ですが)
テレビで私の名前を見た娘が「お父さんじゃぁない?」と母(=妻)に電話したら
「日本橋勤務だからそんな電車には乗っていないよ、同姓同名なんでしょう」と
突き放されたそうです。
昼前多忙で(栄養士で給食に従事)事件など知る由もなかったそうです。
夕方になっても点滴薬離せず、でもテレビでずっとこの件観ていましたので
事件の概要は把握出来ました。
誰が?何で?という思いでした。
会社の人が見舞いに来たので家族への伝言を依頼、まもなく息子が単車で飛ばして
来てくれその後妻が着替えとか持って来てくれました。
さすがに泣きはしませんでしたが胸がいっぱいになりましたね。
夕方8時になりましたが昼飯抜きでしたがお腹空いたという感覚はありません
でした。
その間何度も呼ばれ診察の繰り返しです。
瞳は小さいままでしたが医師の「直るでしょう。」との診断に一安心でした。
取りあえず今日は帰宅OKで3人で帰途につきました。
現在考えたことはこの体験誰でも出来ることではなかったという思い。
良かったかどうかは分かりませんが。
ただ生きていたということでこの大事件の証人として主張出来るのではと
少し日記的に続けてみたいと思います。
自分史という意味でも。
勿論興味ない方は題名でスルーなさって下さい。
続く