「 東北被災地へ絆の旅」 ⑤釜石編
釜石 命からがら津波てんでんこ
釜石市では 語り部 さんからの当時の惨状の語りと現場訪問です。
① 旧堤防(左)にかさ上げ工事中(右)。

釜石と言ったら、私は富士製鉄釜石を第一にあげます。
戦後財閥解体で、富士製鉄と八幡製鉄に分かれていましたが、昭和45年(1970年)
再度合併、新日鉄になり更に平成24年(2012年)新日鉄住金として日本の重工業を
現在も牽引しています。
都市対抗野球やラグビーでも一斉を風靡した会社です。
② JR釜石駅。

③ 駅の真向いはもう製鉄工場です。

⓸ 白煙吐いて稼働中。

駅真ん前が正門という位置に南北に長く新日鉄住金社ありますが町の寂しさは
想像外でした。
駅横にホテルなどが建設中とはいえ駅の反対側はまだ更地ばかりです。
⑤ ここから観光協会所属の語り部さんの案内で市内巡りです。

この語り部さん、ご自分も被災者で今なお仮設住宅にお住まいだそうで当時の有様を
コマゴマと語って下さいました。
地震の大揺れの後「津波だ!」の声に父親と2階へ上がったのですが再度「でかいぞ!」の
叫び声に家を飛び出し避難場所に逃げたそうです。
近くからも続々以前より打ち合わせの高い崖の避難場所へ殺到したそうです。
⑥ 避難場所。

⑦ ある避難者が撮った津波来襲の写真。

⑧ 同。

⑨ 私たちも ⑦⑧の撮影場所へ。

多くの幼稚園児たちが引率されて階段を登っている時に親が来て連れて帰り途中で二人とも、
まもなく来た津波で命を落としたことや
パチンコ店では負けていた客は逃げたため助かったけれど、勝っていた客はそのままやったり
換金に並んだりして溺れ、それに付き合っていた換金係の女性も亡くなったとか新聞ダネにならない
貴重なお話を伺うことが出来ました。
「津波てんでんこ」と言う教訓は生きていて自分が「こっち!」とか「あっち!と大声出して
逃げまくり集団をつくるようにして引き連れて行くのが一番だとも言っていました。
他人のことは構わないでという「てんでんこ」が多くの人を助ける道だと。
⑩ 矢印が私たちも登った避難場所。

そして水が引くまでの3日間多くの人とこの崖上でしのいだそうです。
こういう時も大勢だと生きる勇気が湧いてくると言っていました。
自分の家は無論のこと周りの家もなくなった大きな空間に茫然としたそうです。
広場には集められた死体で溢れていたそうです。
現在釜石の人口は当時の生存者数から500人ほど少なくなっているそうです。
自分もこの地を離れたいと思うのだけれど…と言って涙ぐみ
こんな凄い惨状を伝えたい!とのことで今の自分があると・・・
彼女の今後の活躍を期待し我ら拍手でお別れしました。
溺死体は見たことありますが、整然と並べられた多くの人間の死体を見るって
いう体験などしたくないですね。
⑪ 海上保安庁舎にも浸水ラインの表示がありました。

⑫ 駅からすぐなのにこんな状態です。

⑬ 建設中の防潮堤、アクリル製の窓があり押し寄せる波を見通せます。

語り部さんと別れて次の目的地へ。
町を離れることバスで5分、もうそこは更地です。
3年半超、被災者にとっては長い年月でしょう。
復興の息吹きは何処にという感じです。
続く