ニン
下りのエスカレーターで私の前に女性が立っていた。
私に背を向けているその女性の肩越しに3歳位の女の子の顔が覗いている。
抱っこされてる。羨ましい。私は随分長いことされていない。
どうやら彼女はぐずっているようだ。ふとその子と目が合った――今だ。
すかさず私は伊東四朗風に「ニン!」と笑いかける。
女の子も伏せていた顔を上げ微妙な顔でニンと返してくる。よし!
――ハナが垂れてる。
やるじゃないか・・・母親の肩と自分の鼻にリンクを貼ったのか?
君の勝ちだ・・・
この女の子とは二度と会うことはあるまい。しかし私の中では奇跡的な「ニン+ハナ」コンビネーションを繰り出してきた存在として記憶に残るだろうし、今後ニンをする度にこの女の子のことを思い出すことだろう。
ここで考える。彼女にとってはどうなのだ。
『私が3歳だったある日、母に抱かれエスカレーターに乗っていると、私にニンと笑いかけてきたおっさんがいた。』
お兄さんと言いなさい、しかしおそらくこんな風にすら彼女の記憶には残らないだろう。記憶に留めるにはきっと幼過ぎるしイベントとしても些細過ぎる。私も幼い頃に様々な出来事があったのだろうがほぼ覚えていないのと同じだ。
しかし記憶は決して消えないとも言う。生まれてからの記憶全ては脳内に蓄積されているのだが、時間が経つとそこにアクセスしづらくなっていく(つまりこれが「忘れる」ということだろう)という考えだ。
もしそうだとすればこの女の子の脳内に私のニンは一生保存されている筈。彼女自身もそこへ自由にアクセスしづらくなるというだけだ。
何時の日か彼女も大人に、老人になるだろう。その時にも私のニンは彼女の中に残っている。無意識のうちにニン、と孫にしているかもしれない。
きっとこんな感じで日々の些細な出来事や、自分が既に忘れている過去の出来事などからも「私」という人間は出来上がっている。
ただ、それを自覚できないだけだ。自分のどこが何から出来ているかを知ることはできない。しかし私の中のどこかの部分はきっと誰かのニンから出来ている。
よってニンは続けようと思う。
歯を閉じ、発音は「ニ」と「ヌ」の間だ。ニン。
モアザン 清原
良く利用する小さな喫茶店でご老人たちと会うことがある。
溜まり場になっているようで、今日も数人が来ていた。
彼らはいつも仲良く様々な話をしている。
私はコーヒーを飲みながら煙草を吸うのみで会話には加わらなかったのだが、彼らのパワーには圧倒されることが多いしそのパワー(老人力とは違う)を貰って元気にもなる。
その中で最も高齢に見えるご老人には甚く感銘を受けた。
良く見かける顔だ。
「俺ァー昨日8時には寝たね。もう眠くって起きちゃいらんねえんだよ。カラオケで疲れちゃってよう」
ほう、カラオケか。このご老人はいつも血色が良過ぎる程良いし(酒の可能性もある)、体格もがっしりしている。お元気なのだろう。
「俺が行くカラオケは安くてよう。5時間で1500円なんだよー」
――5時間?
そのご老人は頭を撫でながら
「お姉ちゃんたちがいるとはりきっちゃってよう。毎回俺の歌を楽しみにしてんだよー」
困っちゃうよなあー、なんてニコニコ言うご老人。本当に嬉しそうだ。
その頭は床屋かバリカンかと自分より若い友人に聞かれ、照れながらニヤリと、
「いやー床屋で清原にしろっつってんだよ」と答えるご老人。
――良い。
体が熱くなるのを感じる。
彼の友人達も同じ気持ちだったようで、ホントお元気だよなあーと周りが感心している中、ご老人はボソっと、
「俺ァーオリンピック目指してっからようー」
コーヒーを噴出しそうになる。
凄いセンスだ、いや本気か?だとしたら何の競技だ?
「オリンピックごとに、あー俺ァー今回も生き残れたなあーって思うんだよー・・・」
いやーまだまだお元気そうだよー。なあー。うんうんーその調子だったらあと何回でも見れるぜー。そうだよー・・・
オリンピックが来るのは誰にとっても当然のことではない。
それは当然のことだ。
会話を聞きながら私はこのご老人にとってのオリンピックを考えていた。
次は2006年、トリノの冬季オリンピック。
本当にこのご老人が出場しているのを目の当たりにしてひっくり返ってみたいとも思う。
フィーリンダウン ダウンダウンダウン
二日酔いだ。気持ち悪いし、正直しんどい。いや、光一君の方が好きだ。
久し振りに会う友人と飲みに行った。そこで彼が怪しいセミナーにハマっていることを知る。
盲目的に信じきっているものの良さを瞳孔開かせながら喋られるのは正直しんどい。宗教だろうがなんだろうがどのような信仰であれその思い自体は尊重されるべきだ。だが貧しい彼が私から見て無駄に思えることに莫大な金銭と時間を費やしてしまうのが悔しくてならない。
考えるのもしんどい、生きて行くのは正直しんどい。人間は弱い。
リトルジャイアント
知り合いのおばあちゃんを見かけた。
「やあ」
「おーほーほーマイン君ー」
このおばあちゃんは「よーほーほー」と「おーほーほー」の間で笑う。
私に気付きニコニコと、ヨロヨロと近づいて来る。年齢は90をゆうに越えており背はかなり縮んでしまったよだが背筋は美しく伸びている。手を取り合い再会を喜ぶ。
「散歩してたの?」
「ほーほー、そうー、家族に動けるのは今のうちだから散歩しとけって言われてねーははー」
ニコニコと凄いことを言う。
「まだまだ元気そうに見えるよ」
「頭はボケちゃってるからねー、ほーほー」
「いや、私の見るところそっちももう少しは大丈夫だ」
ほほほー、と嬉しそうに笑う。
「じゃあ気をつけて帰るんだよ」
「おーほーほー」
大きく手を振り再びチョコチョコ歩き始めるリトルジャイアント。子沢山で今や大家族になっているらしい。このおばあちゃんがいなかったら何人がこの世に誕生しなかったのだろう。
家路に着くリトルジャイアントの背中を眺めながら私は彼女のこれまでの人生を思った。
old friends, old friends,
ポール・サイモンは"old friends"という曲の中で老人になることを'terribly strange to be seventy'と想像し、その想いを'silently sharing the same fears'と書いているが、そのようなまったりとした静けさや寂しさ、死が接近してくる恐怖とはアウェイな老人たちがいるのもまた事実だ。
一時期「老人力」という言葉が流行した(どこいった)。それは老いに伴う様々な障害を肯定的に捉え、人生をより積極的に生きようという言わば「パワーレスだからこそのパワー」、あるいは「逆にヨクね?」といったマイナスの認識をプラスへ転換する類のものであったと言える(たぶん)。
企業やそれまでの社会生活をリタイヤし生きる指針を失ってしまったり、老いにへこたれ打ちのめされているよりは「老人力」だろうがバイアグラだろうが使えるものは何でも利用した方が良い。いやどちらが良いというものでもないのだろうが、単に私はバイアグラな老人になりたい。
それでも老人は「枯れている」というイメージが強い。しかし私としてはそこに濃縮された人生のエキスを見たい。
確かに乾いて見える老人もいるがその風化した存在の中にメチャクチャ濃いエッセンスを見て取れることがある。そのような瞬間とても得した気がする。世代を飛び越えこの人の長い人生を風のイタズラにより一瞬でチラ見できた、という感覚に近いのだろうか。そしてそういうエキスに触れ圧倒されている私に対しニヤリと「俺ァーまだまだこんなもんじゃないんだぜ?ん?」というようなオーラを見たい。その前で縮こまりたい。
私は老人でないし老いも彼らほど経験してはいないが、サイモン&ガーファンクルとは異なる見方で老人という存在に期待している。(調べてみたらサイモンは今年64歳、そろそろガーファンクルとold friendsだ)
日々老いていくそのスピードは認識できない。しかし順調に私も老いているし、上手くやれればいつか老人になることができる。本当に寂しく、terribly strangeなのだろうか、70歳になるということは。
よってダイナマイツな秘書を妄想する70歳を当面の目標とする。
それはそれでterribly strangeだとも思う。
オンラインゲーム
オンラインゲーム。またはネットゲームと言うのだろうか。ネットを通して顔も知らない相手と一緒に遊ぶことができる、その点が醍醐味だろう。
全く更新せず旧バージョンのままのOSでギクシャク動いている私はそういう「バーチャル」な付き合いに対し良いイメージを抱いていない。言ってしまえば「キモい」、これで終了してしまうのだがそれくらいで尻込みするのは勿体無いとも感じる。未知のシステムに対して距離を置こうとすることは愛すべき老人たちの態度と等しい、しかし私はまだそんな年齢ではない。
これが私の「オンラインゲーム」に挑む大きなモチベーションであった。
私が利用したサイトには多くのゲームが揃っている。まずプレイしたのはビリヤードのナインボール、やり方さえ分かれば誰でもそこそこ楽しめる。
小学生から中年まで、知らない人とビビりながら試合なぞしているうちAさんという一人の女の子と知り合いになった。顔文字を持たないイズムの私はAさんとのゲーム中のチャットで唯一使うことのできる(^^)をアホのように連発しその結果「感じいい」と言われ仲良くなる。
付き合いが続くうちそのサイト内で使用する自分の分身である「アバター」の服、顔、頭をプレゼントされた。「プリセット(半そで半ズボン)のままだと絡みづらい」からだそうだ。
――私が着せ替えられる。
それ以降、アニメ調の男前の顔、ジャニーズ風の頭をしているのが私だ。選ぶセンスを疑う、がまあそれは良い。善意に感謝する。
絶妙なタイミングでしばしば引くことがありながらも堪えつつしばらく遊んでいたある日、Aさんから相談を受けた。
「カレが浮気してるみたい どうしよう。。」
話を聞いてみるとその「カレ」はBさんといい、そのサイト内での、つまりオンラインでの彼氏なのだそうだ。付き合いが発展し現実に会ったり、つまりなんだ大人の付き合いもしているようなのだが二人にとってはあくまでも「リアルでなくオンラインの恋愛」という認識になるらしい。
そのBさんの浮気相手はどうやら同じサイト内で共通の友人であるC子さんという女子高生であるらしく、BさんとC子さんが二人でこっそりゲームを楽しんでいるのを他の友人から聞き、Aさんは別のIDを取得し他人に成りすましBさん達の様子をスパイしてみたところどうやら二人は「カレカノ」の雰囲気であった、という。よってAさんは浮気をされた、と考えたのだ。
アバターはロリータな雰囲気なのだが、もっと聞いてみると実の所Aさんはゆうに30オーバーの主婦であり、「きっとC子も女子高生って言いながらトシ食ってるに違いないし・・・(云々) 私も浮気しようかな。。。」
以来私は一人でそのサイトにあるパチンコゲームをしている。
昨日は1万玉勝った。
カラクリ
ネットが怖い。未だそうだ。
言うならば、ある日急に「お前あの恥ずかしいサイト見ていただろう」と誰かが言ってくるんじゃないか、といった怖さ。そして「その恥ずかしいサイトを見ていた」という事実。つまり起因するのはPC画面の向こうのカラクリが分からないことに対する不安感なのだろう。
そういう不安感を持たない人間こそがネットライフを謳歌できるのだろうか。なんでも見まくり、やりまくりの。
そのような不安感を抱かない人間には三タイプあるように思う。
まずは無頓着なタイプ。つまり「お前あのサイトを見ていただろう」と言われても、「うん見てたよ。ん?」と目をパチクリンで応えることのできる清清しい人間。
二つ目は完全にカラクリを把握しているタイプ。つまり、「見ていただろう」と言われても「ソースは?」と言い返せる人間(更に法律や人間の精神構造のカラクリまで解していたら言うことなく嫌いなタイプだ)。
三つ目は単にマヒしたタイプ。当初は恐る恐るクリックポチだったのが慣れてしまい無根拠のまま安心し何時の間にかウェブウェーブ乗りまくりZaBoon!なサーファーとなり台風が来ると喜ぶ程危機感覚がマヒした挙句私にまでファイル共有ソフトの使用を勧めてくる人間。「大丈夫ー捕まるワケないっすよー!何ビビってんすかー」って馬鹿。
私は眉間を押さえ、天井を見上げた。
私はネットが怖い。それでも「私にとっての」ネットの利便性を捨てる訳にはいかないのだ。
スティルマインを捨てるマイン。
言ってみただけだ。この発言については明日後悔する。
スティルマイン
欲しい。
かつてジャニスがメルセデスを欲しがったように。
当選した暁には誠心誠意を持ってアメーバの栄光を歌い上げようと思う。
マイン
2周年
先日会った身なりの良いじいちゃんは「私の85年間は間違っていた」と私に言った。私のこの2年間はどうだ。
ネットでものを言うのって世界発信で「怖い」と思っていたし、今もその印象は変わらない。変わらないのだが、当初に「ネットって怖くてあまり不用意ことは言えないですよね」といったことを他の方のサイトで書いたところ「だけどネットだから言えることもありますよ」と優しい返事を頂き、なるほどと思った。今もその言葉をよく思い出す。
ぽつぽつではあるが2年間ネットで文章を書いてみて、ネットだから言えるようになったのは「ゆうこりん」くらいかもしれない。だが、ネットの時間が不思議な流れ方をしていることは良く分かった。気付いたら過ぎてる。しかしどこかのんびりしている。自分が書いたことが積み重なっていき、それをたまに読み返し、ついこないだのように感じることができるからそう思うのだろう。
古びていく日記帳と違って、劣化しないまま、新鮮なまま自分の文章が残っていく。
現実の時間はただただ過ぎるし、寂しいことも多い。しかしネットでの時間の進み方もまた大切な現実なのだなあ、とあらためて考えた。読みに来てくださる方を好きだと思う。どうもありがとうございます。
2007年 2/18 マイン