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前半生 [編集]
イグナチオ・デ・ロヨラことイニゴはバスク地方、アスペイティアにあるロヨラ城で生まれた。13人兄弟の末っ子だったイニゴは7歳で母を失い、1506年に親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を勤めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。1517年以降、イニゴは軍務について各地を転戦したが、1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。
修道生活へ [編集]
療養生活の間、暇をもてあましたロヨラは騎士道物語が読みたかったが、そこにはなかったので仕方がなくイエスの生涯の物語や聖人伝を読みはじめた。やがて、彼の中に聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれてきた。彼は特にアッシジのフランチェスコの生き方に影響され、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させたいという夢を持つにいたった。聖人にあこがれるあまり、彼は自分の名前をイニゴから(アンティオキアのイグナティオスにならって)イグナチオに改めている。
健康を回復すると1522年3月25日にイグナチオはモンセラートのベネディクト会修道院を訪れた。そこで彼は世俗的な生き方との決別を誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げ、カタルーニャのマンレザにある洞窟の中にこもって黙想の時を過ごした。そこでイグナチオは啓示を受けたとされている。ここにいたってイグナチオは世俗の出世を捨て、ひたすらわが身を聖母に捧げることを誓った。それでも、以後の彼の言葉の中には(軍人だっただけに)軍事的な用語やイメージがよく用いられている。
このころ、イグナチオはすでに『霊操』の原案ともいうべきものをまとめていた。これは彼のもとに霊的指導を求めてやってきた人に対して行った一連の黙想のテーマ集であった。『霊操』の影響はイエズス会にとどまらず、以後のカトリック教会全体にまで及ぶことになる。
パリでの日々とイエズス会の結成 [編集]
1528年、イグナチオはパリ大学に入学し、一般教養と神学を学んだ。パリでは七年学んだが、多くの人々がイグナチオの霊的指導を求めてやってきた。その中で、1534年までに彼は六人の重要な同志を得ていた。フランス出身のピエール・ファーヴル、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、スペイン人のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル人のシモン・ロドリゲスであった。
1534年8月15日、イグナチオと六人の仲間はモンマルトルの丘に登り、サン・ドニ記念聖堂で唯一の司祭だったピエール・ファーブルのたてるミサにあずかって、神に自分の生涯をささげる誓いを立てた。世に言う「モンマルトルの誓い」である。彼らの立てた誓いは「今後、七人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」というものであった。これがイエズス会の始まりである。
1537年、七人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かった。時の教皇パウルス3世は一同の知的レベルと志の高さを認め、司祭叙階と聖地巡礼の許可を与えた。6月24日、ヴェネツィアに赴いた一行はアルベの司教から司祭叙階を受けた。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝や教皇、オスマン帝国を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航をあきらめ、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてた。
1538年10月、ファーヴルおよびライネスを従えて再びローマに赴いたロヨラは、教皇から修道会の会憲の認可を得ることで正式な許可を得ようとした。会憲を審査した枢機卿団は好意的な評価を下し、パウロ3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』で会を正式に許可した。その際の唯一の条件は会員数が60名を越えないことということであった。この制限も三年後の1543年3月14日に出された回勅『イニュンクトゥム・ノビス』で撤廃された。
イエズス会総長として [編集]
イグナチオは会の最初の総長に選ばれた。彼は会員たちを欧州全域に派遣して、一般学校と神学校を各地に創設させた。ローマにおけるカール5世の名代をつとめていたホアン・デ・ヴェガはイグナチオと会談し、その志の高さに感銘を受けた。ヴェガはシチリア総督に任命されるとイグナチオとイエズス会員を同地へ招き、メッシーナに大学を開かせた。メッシーナの大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となった。1548年、『霊操』の決定版が出版された。このとき、同書の内容に関してローマの異端審問所で審査を受けたが、すぐに解放された。
イグナチオの書いた1554年版会憲はイエズス会をピラミッド型の組織として規定、会員に上長と教皇への絶対的服従と自己犠牲を求めた。イグナチオは「軍隊のごとき」服従という表現を用いている。彼の座右の銘がそのままイエズス会のモットーとなった、「神のより大いなる栄光のために」(Ad Maiorem Dei Gloriam)である。イエズス会の精力的な活動は対抗改革の原動力となった。
以下、著作は すちーぶ。
★ イエズス会は、聖母マリアを会の母として祝っている。上の歴史とは関係ないではないかとは思うが。実は、1541年イグナチオと最初の会員が、ローマの聖パウロ大聖堂の中にある、モザイクの聖母マリア像の前で修道請願をを行ったことに起因する。イエス様と聖書だけと厳密に言い表した以上、御母堂様マリア様への誓いは、修道会として当然だと、私は考える。ロヨラ城の子息イグナチオは、軍人生活を通じて黙想方法を会得していたが、剣を捨ててイエス様の兵士にならんとした時、当・黙想方法が有意義だと感じたらしい。それを通じて、聖母マリアの恵みが与えられている。モンセラートにある聖母マリアの聖堂にて、祈りを成し、マレンサの洞窟で祈りと苦行を行なっている。その結果、「霊想」と言う祈り方を編み出した。今、日本には「五つの鏡」と言う書物が販売されている。その中心となる思想は、三つの対話だと言う。その極意は、キリストに近づくには、聖母マリアの取次ぎが絶対に必要だと言うもの。イエズス会が最初に建立した御聖堂は、聖母マリアに捧げられた、「ラ・ストゥラーダ(道)」と言うローマにある教会。イエス様絶対であるが故に、聖母マリアに対して、まるで実の子のように振舞った。それは、イエスを上長とする、私達カトリック者は、師・キリスト様の兄弟姉妹であると言う真理に合致する。
★ 一方、ロヨラの第一弟子である、ザビエルは、日本に聖母マリアの聖堂を建てたいと望み、カ二ジアは聖母マリアの真の子供になりたいと、学問を通じて守り続けたのである。そして、初期会員の後継者たちは、その伝統を広め深めて、自らの生活を聖化するための会を作った。その会をマリアの保護の下たにおいた。「コングレカシオ・マリアーナ(聖母会)」。 ザビエルがくれた信仰によって、日本の殉教者はイエを呼ぶためにこそ、マリア様の名を語って、自らを火の中に投じた。そして、イエズス会士(今日の修道士・修道女)は、マリアの祭日があるに関わらず、イエズス会派創立400年の記念の日に、バチカンに願い出て、あえて聖マリアの祝日を決めた。それは聖母マリアの取次ぎによって、イエズス会がいつまでも、イエス・キリストに忠実あらんことを祈っているからである。それは又、彼らとは、カリスマの違う、例えば聖母の騎士会に所属する、私・すちーぶにも、異論はない。