六甲プレイランド MEMORY SPACE | ステンシル製作所 

六甲プレイランド MEMORY SPACE



例のカフェのお話




ステンシル製作所 -EX

ステンシル製作所 -RPL6

MEMORY SPACE

六甲プレイランド


阪神大震災までは、名前のとおり六甲山にあったゲームセンター。

震災後、生き残ったゲーム機やつぶれた機械の基盤とかを

ごっそりこの場所に持ってきて、マスターが手作りしたらしい。

店の窓のひとつは、知り合いがやっていたコンビニの冷蔵庫のドアだと。


写真撮ってもいいですか?と尋ねると


「どうぞどうぞ、私は逃げも隠れもせず生きておりますから」

とマスター。


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ステンシル製作所 -RPL1

ほとんどのゲーム機が実働で、当時の値段(20円とか30円とか)で遊べる。

ふつうの人にとっては、あぁ懐かしいって感じだが、

マニアにとっては垂涎の機械が並んでいるようだ。


コーヒーを淹れていただき、飲んでいると

マスターから店の奥に招かれた。


「まずお客さんに驚いていただこうと思いまして」


そこにあったのは、古いジュークボックス



ステンシル製作所 -JB

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マスターがかけてくれたのは


サン・トワ・マミー♪


越路吹雪さんだろうか。温かいアナログの音。


そのジュークボックスがあるコーナーはこんな様子。



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ステンシル製作所 -RPL4

かつてはここでライブもしていたらしい。

ちなみにマスターは、昔ヤマハのポプコンに2年連続本選出場という実力者。

その時のグランプリが、あの世良正則。パンフレットも見せていただいた。


ますます謎の深まるマスター・・・


コーヒーテーブルに戻ると、

マスターはゲーム黎明期の開発者たちが苦労して作り上げた

メカニズムについて、現物を見せながら丁寧に説明してくれた。


しかしそれは、その後1時間あまりにもわたる、

まるでドキュメンタリー映画のナレーションのような、

マスターの深く哀しく感動的なお話の序章に過ぎなかった。


それからのお話は、必ずしも正確に覚えているとは言い難く、

断片的な記憶とマスターの言葉を交えつつ、順不同で。




◇幻のインベーダーゲーム


1974年、初めてのテーブルゲーム「ブロックくずし」が登場。

1977年、一時代を築いた「インベーダーゲーム」が、タイトーからリリース。

しかしその3年の間に、幻のインベーダーがあったことを知っている人は少ない。

それがこちら↓



ステンシル製作所 -IG

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1977年当時インベーダーをやっていた人は覚えているはず。

爆撃機の移動を操作するのがスティックであったことを。

ところが、この台は開発者がブロックくずしの台を流用して作ったもの。

だから画像のようにダイヤル仕様になっている。

これをもとに、タイトーが権利を買ったとのことだ。



◇大戦経験者が作ったゲーム機


1970年代のゲーム機の多くが、戦争をモチーフにしたものが多い。

どうやら、当時開発にあたった人の多くが大戦関係の技術者で、

それ以外にモチーフとして考えられるものがなかったらしい。


それはさておき、興味深かったのがゲーム機に描かれた

戦闘機や戦車などのイラスト。


ステンシル製作所 -G

素人にはわからないが、知っている人がみると、

たとえば米軍機と、それを攻撃する日本軍機の年代がずれていたり、

空冷仕様のエンジンに水冷用のベンチレーションが描かれていたり・・・


これは、イラストを描いた人が決していい加減であったわけではなく、

むしろ事実を知っていたがゆえに、あえてフィクションとして描いたとのこと。

子供たちが遊ぶゲームは、本物の戦争ではなく、

あくまで絵空事でなければならないとの思いだったのだろう。



◇明野航空学校


実は店の一角に、大戦時代の写真や日本軍の軍服が展示してあった。

さすがに写真はよう撮らんかった。

三重県にあった明野航空学校。

特攻隊のための飛行訓練の学校で、正確な言い方は忘れたが、

マスターの祖父母が寮長のような立場とまかないをされていたとのこと。

若い訓練兵からは、お父さん、お母さんと呼ばれていたそうだ。


そこから飛び立っていった兵士のこと

その直前に結婚した若い奥さんのこと

特攻機は、海上5~6mの高さを水平に飛んで敵艦に突っ込んだということ

KAWASAKI製の爆撃機のこと

零戦のゼロは、それが作られた皇紀2600年の末尾の「0」であるということ

特攻兵たちは、みんなこの世に未練をたっぷり残しながらも、

最後の最後には笑顔で飛び立っていったということ


数年前に大病を患ったマスターは、

決して戦争賛美者でもなく、右翼思想でもないけれど、

どうしても戦争を否定する側には立てない、

ただこの事実を語り継いでいく人生を選んだということ

そのために、屋根の上に三式戦闘機を自作したということ

その高さが、地上5~6mであるということ・・・


ステンシル製作所 -3

尾翼のマークは、明野航空学校のもの。




ステンシル製作所 -NY

「親が死んだらグレよかな」と言う、まもなく60を迎えるマスター、

安田さん。


「この店は私利私欲でやってますから」

と言いながら、コーヒー代取るの忘れかけた安田さん。



福知山から宮津に抜けるR176の途中。


http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E5%B8%82%E9%9B%B2%E5%8E%9F%EF%BC%94%EF%BC%90%EF%BC%97&lat=35.42054523&lon=135.08422418&ei=utf-8&v=2&sc=3&datum=wgs&gov=26201.56.407



ステンシル製作所 -BS

このバス停のまん前


一期一会


出会いはご縁


すべての道は、何かに通ず





いきなり一人旅 (了)