もちろん、いじめもモラハラもDVも犯罪で今では多くの相談窓口がありますので、ここでは救済の具体的なお話は書かないようにしようと思います。
私はモラハラから決別できたのは、自分から動いたからというよりは、あまりにも暴力が危険なレベルになったからと言えます。
では、なぜ自分で相手がおかしいと思えなかったのでしょう。
そんな加害者を懸命にケアしようとしていたのでしょう。
私はなぜ自分が異常性に気が付かず、自らそうした状況のとどまり続けたのか、カウンセリングを通じてわかってきたことがあります。
それは私の母親が加害者であり、支配する人間だったからです。
私の母親はアルコールに問題を抱えた父親(私にとっての祖父)と、暴力をふるう夫から逃げ出せず、次々に5人の子供を戦時下で産んだ母親(私の祖母、私の生まれる前に亡くなっている)のもとで育ちました。
直接の戦争の被害はなかったようですが、食糧難や医療の不足している中で育ちます。
これは母親から直接聞いたことですが、祖父が暴力をふるうことが子供のころにとてもいやだったこと、夜街灯の明かりのない中、祖父のために空き瓶を抱えてお酒を買いにいかされたことがいやだったことを何度も聞かされました。
そんな母親は、長女の私が生まれると赤ちゃんの頃はかわいがっていたようですが、次第に嫉妬や憎しみを私にぶつけるようになります。
精神的な虐待のほか、掃除機のプラスチック製の吸引するホースを固い床の上に正座させて折れるまでたたく、かわいがっていたペットを殺すよう命じ、保健所に8歳の子供に重たい昭和の時代の鳥かごを夜運ばせて自分で殺すようしむけたことなど、今でのつらい思い出です。
母親は、今でいう毒親でした。
そして、彼女自身も家庭内暴力の犠牲になった人でした。
彼女は私がうらやましくて仕方がなかったのです。
おなかのすく経験をしないわが子。
父親のお酒を買いに行かされることのないわが子。
ふろの焚口で一生懸命集めた薪をくべて、家族の入浴の世話をしないでよいわが子。
洋服も学校も何一つ自分が与えられなかったものを持っているわが子。
妹が生まれると、私を差別し妹をかわいがることで私をいじめて、喜ぶような母親でした。
私が幼稚園の頃、先生のひくオルガンがとても好きだったのでピアノを習いたいというと、どこにそんな金がある!という人でしたが、妹が幼稚園の先生になりたいというと、家の床を補強してピアノを購入し、私には触ることも許さず、妹にピアノを習わせました。
妹はその後、幼稚園の先生になることはすっかり忘れ、ピアノも小学校の低学年でやめてしまい、その後は物置になっていました。
彼女は自分が欲しくても得られなかったもの、生まれながらに全て与えられているかのように思える長女に、子供のころからの恨みや憎しみを全てぶつけることで、自分の気持ちをすっきりさせていたようです。
正月に親戚が集まって皆で食事をしているとき、急に大きな声で「〇〇(私の名前)、母を磨きなさい、お前の歯は茶色いよ!」と怒鳴るのです。
親戚の人たちは黙り込みます。
「お母さん、真っ白い歯は生まれつきだし、歯医者さんには定期的にいっているし、根本が茶色いのは生まれつきだから」というと、不服そうに黙ってしまいます。
その時の母は、鬼の形相から急に普通にかわり、あれ、いったい今何があったんだろうというような様子でした。
もしかしたら、乖離を起こしていて、多重人格的なものがあったのかもしれません。
とにかく、母親の中には怒り狂い、憎しみ、暴力的な自分の父親に対する憎悪で気の狂ったようになっている小さな子供がいたのです。
自分の母親が50代半ばでがんで亡くなった時、父親(私の祖父)に対して、お父さんが死ねばよかったのに、と言い放ったと本人からも親戚からも聞きました。
そのような家庭で育ったので、私の叔父叔母はとてもゆがんだ人たちでした。
母親の妹の結婚生活は自分の子供のころの再現でした。
夫の暴力も暴言もひどく、二人の子供がいましたが、ひと煮のいとこは精神をやみ、もう一人は海外に引っ越してしまいました。
実母と縁をきったのです。
この叔母は少しでも相手が優れていると、笑いながら相手をばかにする人でした。
それが子供で、甥や姪でもそうでしたが、特に私は彼女の犠牲になりました。
そして、それを見て見ぬふりをして一緒に笑う母親でしたが、今ではこの二人は仲たがいしていますし、両方に友人はいません、