私は、ある持病の手術のために、昨日まで5日間入院していました。

 今回はその時に気が付いたことについて紹介したいと思います。(実名は避けます)

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 今回私がお世話になったたくさんの看護師さん方を見ると、その大半が患者とタメ口で話すタイプの方でした。このことは、この病院に限ったことではなく、少なくとも私の経験上、昔からこういうタイプの看護師さんが多いです。

 さて、この「タメ口」で特に苦しんだのが私の亡くなった父親でした。

 父は晩年、入院生活を過ごしたのですが、その病院で父の担当になった看護師さんが、やはり「タメ口タイプ」の人だったのです。これは、患者さんとの心の距離を近づけようとするためのものだと思いますが、タメ口で話していると、患者との関係が自然とフランクな関係になってしまうためか、父が看護師の処置に「痛い」と言っても、「少しくらい我慢して」と、あしらわれていたそうです。結果的に父はそういうタイプの看護師さんに心を閉ざすようになり、病院からは「遠藤さん(父)が私達の言うことを聞かなくて困っています」と家族が注意を受けました。

 因みに、父は本県の特別支援教育の基礎を作り、現職中はもとより退職後も長く地域の教育に貢献したとして、「秋の受勲」対象者となっています。つまり、単に自分勝手な気分屋であるために人間関係が不得手だったということではなく、一定の人格を備えた人物であったことだけは、彼の名誉のためにお伝えしておきます。

 加えて、全ての看護師さんに対してそうだったわけではなく、丁寧に接してしてくださるスタッフさんに対しては父はいつも笑顔でしたし、その皆さんは1人残らず言葉遣いが丁寧でした。父はいわゆる“是々非々”タイプだったのです。だからこそ、ひと角の人間になれたのかも知れません。ところが病院側では、父が相手によって態度が違っていたことを知らないために、父に不満を持ち、かつ、発言力の強い方々が「遠藤さんが我々の言うことを聞かない」ということになってしまったのだと思います。因みに、誤った言動をする人ほど組織の中で強い発言力を持つという傾向は、教師の世界でも見られがちなことでした。


 今回の私の入院でお世話になった多くの看護師さんを見ても、いっさいタメ口を使わず言葉が丁寧な人は、私が困っている事によく気付いたり、きめ細やかに対応してくれたりと、例外なく接し方も丁寧でした。ただしタメ口をする人全員が、態度が不適切というわけではありません。言葉遣いが丁寧な人の方が、そうでない人に比べて、態度が適切である確率が圧倒的に高いということです。

 その父の“是々非々”の血を少なからず受け継ぐ私も、病人の立場になって改めて当時の父の気持ちが分かります。

 

 ところで、タメ口に抵抗感を抱く患者はいても、丁寧語をはじめとした尊敬語に抵抗がある患者はいないと思います。現実的に、一般の接客業の場合、タメ口を使う店員さんは皆無で、皆が尊敬語で接客しています。これは、客が皆そういう接客を求めているからに違いありません。

 これは学校でも同様で、子供に対して厳しい口調で叱責する教師に抵抗感を覚える子供(特に感覚が敏感タイプの子供)はいても、丁寧に穏やかに対応する教師を嫌う子供はいません。障害の有無に関わらず、全ての子供が受け入れられる指導を行う、それこそがユニバーサルデザインによる考え方なのです。


 また、手術を終えて病棟に戻ってきてから頭が痛かったので、少しでも頭部を楽にしたいと思い、リクライニングベッドの頭部側を少し上げてくれるように看護師さんにお願いしました。すると「頭は高くしない方がいいです」との返事。聞けば、下半身麻酔をしているため頭痛が酷くなるのだそう。その話には十分納得したのですが、引っかかったのは、その「高くしない方がいいです」と言った時の看護師さんの雰囲気でした。話し方が事務的でクールで、こちらを見ていないうえに微笑んでもいないのです。これらの言動が3つも揃うのは単なる偶然でしょうか?

 おそらく、患者が困っている事によく気付いたり、きめ細やかに対応してくれたりする等、相手への接し方が丁寧な人は、その時、頭の中に「相手を尊重しよう」とする意識が生まれるために、それによって、自ずと「安心7支援

」のような「見る」「微笑む」「穏やかな口調で話す」という相手を尊重する言動にまで気をつけるのだと思います。例えば、プロとしての店員業務の際には無意識のうちに客を尊重した言動をとる人でも、家族には言葉遣いも普通になるでしょう。「意識が表情や口調を左右する」と言うわけです。先の看護師さんが、3つの言動が揃ったのも、患者に対する元々の意識がそれ程高くなかったことの表れだったのかも知れません。

 更に、ある日の早朝、ベッドでまどろんでいると、隣の患者さんの世話をする看護師さんの声がカーテン越しに聞こえて来ました。言葉遣いも丁寧で口調も穏やかです。たとえその姿が見えなくても、その方の顔の表情が容易に想像できましたが、次に私のベッドのカーテンを開けた時の朗らかな笑顔を見て「やっぱり」と思いました。この“予想と現実との一致”は、それまで私が経験した中で、表情が朗らかな人は言葉遣いも丁寧だったことが殆どだったことの証だと思います。


 また、その翌日、トイレの中で不具合が生じ、そこから直接ナースコールをして、また別の看護師さんを呼びました。すると、そのベテランの看護師さんは真剣な表情で、「あのね遠藤さん、手術の後っていうのはね……」とコンコンと説諭を受けました。心の中では、「今回の術式は初めてで、対処の仕方が分からなかったので来ていただきました。」と伝えたかったのですが、看護師さんの圧力に押され、何も言えないままでした。

 さて、「トイレの中での不具合」が生じた私は、下記愛着場面表によれば、問題を抱える「A 充電場面」にいました(不安を抱える問題場面では、通常のような円滑な探索行動ができなくなるのは大人も同じ)。

そこでは、「今回の術式は初めてで、どう対処したらいいかが分かりませんでした」という私の話を聞いてもらったり、「お困りでしたね」等と共感してもらったりすれば良かったと思うのですが、術後の判断や身の振り方を説諭するのは、残念ながら、問題を抱えない「B 活動場面」での父性の働きでした。

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 以上、養護を受ける側の身になって改めて、受ける側にはそれなりの“思い”があることを自覚すると同時に、親に対する子供の気持ちも良く分かりました。


 補足ですが、このブログは、愛着の考えに基づく子育てに関係した題材を扱うものなので、今回も以上のような分析的な内容になりましたが、それとは別にして、今回の入院では、命や健康を守る治療や看護等の病院の仕事の大変さを改めて痛感しました。本当に頭が下がる思いです。