先日あるテレビ番組で、次のようなテーマを特集していました。

子どもが自分の不用品を『メルカリ』などのサイトで売ってお小遣いを得る事はありか?なしか?


    このテーマについて番組の視聴者を対象に行ったアンケートでは、親の半数以上が「あり」と答えていました。おそらく、親自身が不用品買い取りサイトを利用した経験があるのだと思います。更に、「自分の必要なものと、そうでないものとを分けて、不要なものを売って自分でお小遣いを捻出することは、金銭感覚を身につける上で大切な経験ではないか?」という肯定的な指摘も寄せられていました。


    ちなみに、売買サイトの利用規定では「ユーザーが未成年者である場合は、事前に親権者など法定代理人の包括的な同意を得たうえで本サービスを利用しなければなりません。」とされています。つまり、子どもの利用は、親の判断に委ねられているのです。ということは、先のアンケートの結果に従えば、半数以上の子どもが「メルカリ」を利用することになるでしょう。


   しかし、その場合次のような問題が発生するようです。

親や友達からもらったプレゼントで要らなくなった品物を売る事はありか?なしか?


    私は「なし」の立場です。なぜかと言うと、子ども達に「いただく」と言う気持ちに対して“鈍感”な人間になって欲しくないと思うからです。「何かをいただく」ということは、その人が自分のことを考えてくれたということですから、もらう物そのものがその人の“真心”の証です。相手の方が「何を贈ればあの人が喜んでくれるだろうか?」と思いをめぐらしてくれていたならば尚更です。その“真心”をもらうことは決して「当たり前」ではないと思うのです。

    その意味で、受け取る前は「ねだらない」、受け取る時は「お礼を言う」、受け取った後は「不満を言わない」、等を教えたいと私は思っています。

最近の話では、子ども達は“お年玉”をいただいたと思います。中には「ねえ、お年玉は〜?」と自分からねだったり、お礼も言わず受け取ったり、もらったその場から袋を開けて「少な〜い」と不満を言う子どももいるようです。


    更に、プレゼントはその人の“真心”であると同時に、自分を愛するが故に贈り物をしてくれたその相手との間に存在する「愛着(愛の絆)」の証でもあります。子ども達が人生を生きていく中では、必ずと言っていい程、社会集団の中でストレスや脅威に襲われる場面が訪れます。その時、幼い子供は「愛着(愛の絆)」で繋がった母親という存在を求めて自分の心を癒します。つまり子どもにとっては母親が“「愛着」対象”になっているのです。しかし、成人し親元を離れた生活の中では、本人の独力でそのピンチを乗り越えなければなりません。その時に、過去のプレゼントをとっておくと、そのプレゼントそのものが、本人の“「愛着」対象”としての存在となり、「自分はこれだけの人に愛されてきた」と自分の心を癒してくれるのではないかと思うのです。ただでさえ、昔の思い出の品にふれると、どこか懐かしい温かい気持ちになるものです。それが、人からの“真心”が込もっているものならなおさらではないでしょうか?


【参考記事】

    この投稿を作成中、開いた口が塞がらない驚きの記事を見つけました。ある母親がメルカリに出品した商品は「うちの息子」。更に驚くのは、その販売内容。詳細は記事参照。

商品「うちの息子」 フリマアプリ・メルカリに病みすぎな出品