街で車を走らせていると、交差点で地域の小学生に会うことがよくあります。その時に、「?」と感じることがあります。今回は、その小学生達の「?」について考えてみたいと思います。

赤信号で止まっている車に「ペコリ」?
   まずは、信号のある交差点や道で、信号が赤になって車を停止させている時のことです。
   こちら側の信号が赤になり車を停車させた時に、ランドセルを背負った小学生が横断歩道を渡っていきます。そして、渡り終わるとこちらに体を向け直して「ペコリ」とお辞儀をするのです。子どもからすれば、「止まってくれてありがとうございます」という意味の行為だとは思うのですが、運転者からすると、「子どものために止まる」というよりも、「信号が赤だから止まる」。もっとあからさまに言えば、「違反すると罰せられるから止まる」という意識でしょう。そんな時に、わざわざお辞儀をされると、逆に恐縮してしまいます。
   その行動も中学生になるとしません。車がなぜ停止したか分かっているからです。県によっては学校がそう指導しているそうですが、なぜ小学生にはさせるのか?が分かりません。

横断歩道を渡り終わってから向き直って「ペコリ」?
   次に、信号の無い横断歩道交差点や道で信号が赤になって車を停止させている時のことです。
   今度は、信号はないけれども、横断歩道のたもとに子どもが立って渡ろうとしている時に停止させます。すると、小学生が渡っていき、横断歩道を渡り終わってから、やはりこちらに向き直って「ペコリ」とお辞儀をします。
   このパターンでは、運転者は「横断者のために車を停止させる」という意識を持っていると思います。しかしこれも中学生になるとやらなくなります。なぜなら、一般の大人はそうしていないことを知っているからです。大人は、やるとしても、渡り終わってからわざわざ体を向き直してするのではなく、余り“わざとらしさ”を出さないように、横断歩道を渡りながらさりげなく会釈程度にします。

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   状況に応じたこういう行動は、学校の先生から一方的に「車に止まってもらったら、渡った後にお辞儀をしなさい」と教わっていたのでは身につきません。指導する学校の先生方には「ドライバーに礼をするのは、自分のために止まってくれるから」という“理由”までしっかりと教えてあげてほしいと思います。なぜかと言うと、人間の記憶というものは、それ単独では“記憶の倉庫(「長期記憶」)”に取り込まれません。“理由”と言う既に持っている知識と結びついて初めて“記憶の倉庫”に取り込まれるからです。つまり、子どもが既に持っている「自分が何かしてもらった時はお礼をする」という知識と結びつくことによって子どもの“記憶の倉庫”に取り込まれ、大人になった時にも生きて働くのです。
   これはいわゆる、子どもを自立した社会人に育てるための「キャリア教育」に関わることです。この「キャリア教育」の4つの観点の中に「意思決定能力」というものがあります。この意思決定の根拠となるのが、「ドライバーに礼をするのは、自分のために止まってくれるから」や「何かしてもらった時はお礼をするものだ」という既有知識です。「車に止まってもらったら、渡った後にお辞儀をする」という理由のない知識だけだと、大人らしい状況に合った意思決定ができません。

   しかし、このようなふさわしい行動を子ども達が教わるに最も相応しい相手は学校の先生でしょうか?私は、親と行動をともにした時に学ぶ経験が最も影響を与えると思っています。学校の先生は何十人という子どもを相手にしているのであくまで一般的な指導しかできません。しかし親が一緒に行動している時には、親自身が視覚的にその場に応じた手本を見せることができます。
   中には、親はしないけれども子どもだけはお辞儀をするという場面に出会うこともあります。学校で教わったことを自発的にしているのでしょう。とてもえらいと思います。しかし残念かな、親御さんが社会的マナーを教えようと言う意識が無いようです。

   私は、学生時代の生活は、大人になった時の学びの場であるべきだと思っています。つまり、大人になったときに役に立たない小学生限定の言動は覚えても余り意味がないのではないかと思っています。大人になるまで子どもの記憶に残る、そして社会人としてふさわしい時と場に応じた行動を学ばせたいものです。