【今回の記事】
【記事の概要】
少女が狙われている
   神奈川県座間市のアパートで9人の切断遺体が発見された事件では、自殺願望をツイッターでほのめかしていた少女らが犠牲となりました。東京や北海道では、同じような書き込みをしていた少女をわいせつ目的で誘拐したり、殺そうとしたりする事件が相次いでいます。容疑者は「座間の事件を参考に家出少女を探した」いう主旨の発言をしているそうです。なぜ、少女たちはSNSに「死にたい」などと簡単に書いてしまうのでしょうか。事件について、女子高校生に聞いてみました。(以下、インタビュアー竹内氏)
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女子高生座談会(座間の事件)なぜネットに「死にたい」?
竹内 「死にたい」ってネットに書く?
A子 考えてみたら、よく書くなぁ
B子 道でこけて恥ずかしくて死にたい
A子 明日テスト、もう死にたい、とか
C子 疲れた~くらいの時もあるよね
A子 そう、軽い感じ
B子 軽い言葉を狙われた

   もちろん、深刻な思いの場合もありますが、彼らにとって、「死にたい」は、「疲れた~」の代わりくらいの軽い言葉の場合も多いそうです。そんな軽い言葉が犯人の標的になってしまったかもしれないと言います。
かまちょ、って?
竹内 じゃ「死にたい」は放置でいい?
A子 かまちょ、もいるからなぁ
竹内 かまちょ、って?
A子 「かまってちょーだい」ちゃん
B子 メンヘラの、かまちょかも
E子 リスカ見せるより手っ取り早い
A子 即リプたくさんくるし

「死にたい」って言葉は、「かまってほしい」ときに効果的だそうです。メンヘラ(=メンタルヘルスが病んでる子)が、リスカ(=リストカット)の傷を見せて「かまってアピール」したりすることもあるけど、ネットの「死にたい」の方が手っ取り早く、多数の即リプ(=即座のリプライ返信)が来る、と言います。
なぜ友達に言わない?
竹内 友達に言わないの? 親友とか?
A子 「死にたい」はドン引きされる
B子 表アカでは良い子してたいもん
A子 表はリア充自慢、インスタ映え笑
E子 裏アカは自分の弱みも書くから
B子 これ以上、印象悪くならない
C子 ネットにはいい人もいる
D子 真剣に聞いてくれる
C子 わかってくれて優しい
A子 同じ趣味の友達!
B子 顔も知らないから書きやすい
C子 何かあったらすぐ切れるし

   表アカウント(=表アカ、公式の自分)で良い子を演じている反動で、裏アカウント(=裏アカウント、自分の裏の顔)では、弱い自分、悪い自分をさらけ出す。ネットの人は、弱い自分、悪い自分をはじめから知ってくれているから、何でも話せる。いざとなったら簡単に関係を切ることができるから安心と言います。
「子供・若者白書」(内閣府、2017)によると、若者にとって「居場所」と感じられる場は、「自分の部屋」「家庭」に次いで「インターネット空間」が3位につけており、「学校」を上回っています。インターネット上の人に対し、「困ったときは助けてくれる」との回答が21.8%、「他の人には言えない本音を話せるときがある」との回答も25.4%となっており、インタビューをした女子高生と同様の傾向が見られます。
なぜ大人に言えない?
竹内 大人に話してほしいなぁ
A子 大人は大騒ぎして暴走する
B子 一人に言ったら全員に伝わる
C子 ホウレンソウ、らしいよ
A子 学年集会されたり
B子 だから先生には言わない

   大人は信用できないと彼らは言います。私たち学校教員は、ホウレンソウ(=報告連絡相談)を合い言葉に、学校全体で子どもたちを守ろうとしていますが、それが「暴走」と映っているとしたら悲劇です。

【感想】
   今回の記事の中で最も重要な点は、ネットでの「死にたい」発信が彼らにとっての「かまってアピール」である場合があるということでしょう。
とにかく「誰かから声をかけてもらいたい」という愛情の飢餓状態にあるのです。そこで、手っ取り早く多数の返信が来るネットへの「死にたい」発信をするのですが、その“返信”が、彼らを愛情の飢餓状態から救ってくれる貴重な“声がけ”になっているのです。

   私達人間にとっての「居場所とは、本来は、物理的な場所ではなく、自分が心で繋がっている誰かのことを指します。「自分の部屋」や「インターネット空間」を居場所と感じている子供は、誰かと一緒にいることでストレスを感じているために、「その人から離れることができる場所が一番心が落ち着く」と言う意味で自分の「居場所」と表現しているのだと思います。
   先の「心で繋がっている誰か」というのは、「所属・愛情の欲求誰かの愛に自分の心が所属している)」を満たしてくれる誰かのことで、それは自分と“愛情という名の絆”で繋がっている誰か、つまり、自分にとっての「愛着(愛の絆)」の対象となっている人のことです。彼らは自分と「愛着」を形成してくれる誰かの愛情行為、例えば「愛着7」のような視線”や“笑顔”や“言葉”等に飢えているのです。
   しかし残念なことに、その「誰か」の中に親や教師が入っていないというのです。例えば、学校の場合で言えば、いつもピリピリしている担任の先生の下では、子供たちも「いつしかられるか分からない」と言う緊張感から、同じようにピリピリしてしまいます。そんな教師に欠けているのが、子供達が求めている“視線”や“笑顔”や“言葉”なのです。
   親や教師が彼等の居場所となる為には、先の「愛着7」のような、彼等と“愛の絆”で繋がるための愛情行為を施してやらなければなりません。

   しかしその一方で、彼らは「大人は“信用”できない」と言います。そもそも「愛着」を形成するということは、子供が「この人は自分をいつも見ていてくれる“信頼”できる人」と思える信頼関係を築くことです。子供が「大人を信用できない」と感じているということは、その大人との間に「愛着」を形成できていない証拠と言えるかも知れません。

   また、彼女らは、友達の前では「表アカでは良い子してたい」「表はリア充自慢でいたい」と言います。しかし、「ネットの人は、弱い自分悪い自分をはじめから知ってくれているから、何でも話せる」と言います。つまり子供達は、友達には自分の弱いところを見せたくないと思っているのです。
   この事は、私達大人に対しても同様で、白梅学園大学教授の増田修治先生は、いじめ問題に関わって、「今の親御さんは、お子さんに強くあること何でも自分の力でできること自立すること求め過ぎている」「(その為)子供は“自分がいじめられている”ということを、なかなかに言えないと指摘しています。
   もしかしたら、そう言う幼少の頃からの「強くあれ」という言葉がけの為に、子供の意識の中に「弱い自分であってはいけない」という考え方が知らず知らずのうちに身についてしまい、友達や親に対して弱い自分を見せたくないと思うようになっているのかも知れません。

   いずれにせよ、子供が何気なく「かまってアピール」として「死にたい」を発し、それが犯人の標的になってしまったかもしれないと思うと、私達大人の愛情行為次第で、事件は私達の直ぐそばに近寄って来る場合もあると感じずにはいられません。