【今回の記事】

【記事の概要】
   11月6日夜、札幌市中央区で、タクシーに乗り込んだ男が、車内で暴れ料金を払わずに立ち去ったことについて、タクシー会社は8日午後、警察に被害届を出しました。
叫びながら防犯ボードを蹴る男:「東7(番地名)でも(この道は)通んねよ、どうなってんだよ、おい!おい!」
   6日午後11時30分ごろ、札幌市の繁華街ススキノで、タクシーに乗った男は(「行き先が違う」等と)運転手に暴言をはき防護板などを蹴って壊し乗車料金990円も支払わずに立ち去りました
記者:「運転席の防護版が、厚みがあるんですが真っ二つに割れています。かなりの力がかかったとみられています」
   運転手の男性にけがはありませんが、被害額は約14万円だということです。タクシー会社は8日午後、警察に被害届を出しました。
タクシー会社の上司:「暴力は絶対にいけない。うやむやにするつもりはない」
警察は捜査に乗り出す方針です。

【感想】
   私はこの事件をあるテレビ番組で知りました。その番組では、客が行き先を告げた時のドライブレコーダーの映像を流したのですが、客が行き先を告げた後、運転手がそれを復唱して確認しました。しかし、その復唱した行き先の番地客が告げた番地違っていたのです。しかし客はそれに対して返事もしませんでした。自分の行き先を告げた後直ぐにスマホの操作に熱中し始めた為に、運転手の“誤復唱”に気づかなかったのです。
   この番組では、行き先についての両者の発言の違いを示すために、両者の発言をテロップにまでして比較して表示していました。その視覚情報はハッキリと覚えています。明らかに運転手の復唱が間違っていたのです。
   しかし、その他の報道では、「タクシー会社によると男性客は乗車した際、『北3条東丁目』と告げたとの事です」と紹介されています。しかし、改めて上記記事②の動画で調べてみると、報道とは違い、
男性客北3(条)東(丁目)まで」
と告げています。それを
運転手「はい、北3(条)東(丁目)」
と誤って復唱しているのです。
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その事は、客と運転手の「北3東◯」の◯の部分を聞き比べるとよく分かります。運転手は「7(なな)」と“音分”で喋っていますが、客は明らかに“音分”で喋っているのです。つまり上記の「タクシー会社によると…」の報道は、運転手の勘違いをあたかも正しい事実であるかのようにそのまま報じているのです。その上で、男性客が乗車中に「『北3東』に行く道と違うんじゃないですか?」と、乗車時に男が告げた内容(「北3東」)と違う行き先を急に言い出してトラブルが始まった、と“客の勘違い”のせいにして報道しているのです。

   更に、上記記事では、「乗車料金990円も支払わずに立ち去りました」と報道されていますが、動画を見ると、実は、客が蹴り出す前に「(行き先を間違ったので)料金は要りませんから」と運転手の方から申し出ています

   たとえ運転手に落ち度があったとしても、大声で罵声を浴びせたり、暴行をはたらいたりする行為は決して許されるものではありません。しかしだからと言って、客の問題行動をクローズアップして暴行を加えた側だけを責める報道の在り方に疑問を感じます。男性客が乗車したときに行き先をどう告げたか等は記者がドライブレコーダーをきちんと調べればすぐに分かることです。そうすれば、運転手の聞き違いだった事も分かりトラブルが起きたきっかけも明らかになるはずなのに、そちらの報道はせず、問題行動を起こした側の反社会的な行為だけをクローズアップするのは、「報道の客観性」という面から考えた場合どうなのでしょうか?

   運転手の過失は、復唱を間違ったことだけではありませんでした。復唱した後の客の反応確認していなかったことも同様です。「復唱」と言うのは、相手が言ったことを自分が正しくは理解したかどうかを相手に確かめるために行う行為です。ですから、復唱をした後に客からの反応がなかったのであれば、再度復唱通りでいいかを客に対して確かめる必要があるのです。しかし、運転手は「北3(条)東7(丁目)ですね?」と相手に確認せず、「はい、北3(条)東(丁目)」と、一方的に自分が聞こえた通りに繰り返しているだけでした。

   ただ、この男性客をはじめとして、相手の言ったことに返事を返さない人間は沢山いるのが悲しいかな実態です。もしかしたらこの運転手も、始めのうちは復唱後の相手の反応をきちんと確かめていたのかもしれません。しかし、あまりにも無反応な客が多いために、いつの間にかその確認を省略するようになってしまったのかもしれません。あくまで推測ですが。
   実は、私がこの報道を耳にして、一番問題視していたのはこの“両者の空回り”でした。もしも、この男性客が、運転手の復唱後に「いえ北3(条)東5(丁目)』ですよ」と返してさえいれば、このような大事にはならなかったでしょう。しかし、スマホに操作に気をとられ運転手の復唱に耳を貸すことはありませんでした。また、運転手も、相手の反応を求めてさえいれば、やはりこのような事態には陥ってはいなかったはずです。単なる機械的な復唱をしただけでした。
   このように、人と人とが自分の作業や思い込みに没頭して互いの発言に注意を向けない“空気”が広がりつつあるのが今の「脱愛着」社会の一面でしょうか。
   家族の中ではどうでしょうか?親から声をかけられてもゲームに熱中して返事もろくに返さない子供はいませんか?そんな時に、親は子どものそんな態度をきちんと注意しているでしょうか?「どうせ言っても反応しない」と諦めてはいませんか?
   返事をしないことが常態化していると、いざ重要な事柄を伝えた時に返事が返ってこなくても「どうせいつもの事」とやり過ごしていたら、実は相手に伝わっておらず大変なことになったと言うトラブルが必ず起きます。すると「言った」「言わない」の喧嘩になって、家族関係が更にギスギスしたものになってしまうでしょう。

相手の言うことに耳を傾け、声をかけられたらきちんと返事を返す」。この“当たり前のこと”が出来るか?出来ないか?そのことが、これからの社会がどこに向かうのかを示唆すると言っても過言ではないような気がします。