前回の投稿では、福岡・博多高校で授業中に生徒が教師を暴行したという事例を紹介しました。その後、ある方のブログで次のような主張を目にしました。

暴力・暴行は誰に対しても許されないものだから、生徒の逮捕は当然


「暴力・暴行は誰に対しても許されないもの」という事に異論を挟む方は誰もいないと思います。しかし、「だから生徒の逮捕は当然」と言う結論に至るのは早計と私は思います。

   この高校の校長は、事件発覚後のインタビューで、「生徒は『こんな大事になるとは思っていなかった』と反省しているそうです(保護者からの情報による)」と報告しています。このことは、前回述べたように、「懲戒の内容や基準について子供や保護者に事前に周知しておくこと」という文科省からの通達を学校側が実施していなかった事の表れだと思います。そのような学校側の不備があっても、とにかく生徒が教師に暴行を加えたら、「暴力・暴行は誰に対しても許されない」という理由から警察…。学校と言うのはそんな寂しい場所なのでしょうか?

   1970年代後半に深刻な社会問題(教師は殴られ、窓ガラスは割られ、授業中にはドッジボールが飛び交い、校舎の廊下をバイクが走る等)となった校内暴力を風刺して作成された「3年B組金八先生」の第2シリーズ(1980〜1981年放送)を思い出します。

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   金八先生は、教頭に向かって次のように訴えます。

問題が起こったら教育委員会や警察に頼る?
 そんなことで教師としてよく給料もらってますね!
箱の中に腐ったミカンがひとつあると、他のミカンも全部腐ってしまうだから、腐ったミカンを見つけたら、すぐに箱から捨てなければならない。
これが荒谷二中のやり方ですか?」

それに対して教頭がつぶやく。
「或いは、それもしょうがない事ですね」 
金八が反論する。
「どうしてですか、腐ったミカンを放り出す、それがプロの教師のやることですか?
「そりゃあ、人間辛い目に合って、あちこちぶつけりゃ誰だってどっか腐ってきますよ。あの加藤だって、父親がサラ金に手を出して蒸発さえしなけりゃ…。」
思わず涙がこぼれる金八、さらに続ける。
「我々は機械やミカンを作ってるんじゃないんです、人間を作っているんです。そして、人間の性根が腐りきってしまうことなんか絶対に有り得ないんです。それを防ぐのが我々教師じゃないんですか?そして、もしも、もしも…それが出来ないのであれば我々は教師を辞めるべきなんです…。」

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   あの時に金八先生が訴えていたのは、

問題行動は辛い環境にある子供たちの悲鳴であり、教師として正しい指導をしていれば子供の精神そのものは腐ることはない。警察などの力に頼らずに、私達の力で生徒達を正しい方向へ導きましょう!

という事だったと思います。金八先生はあくまでドラマでの存在ですが、当時問題行動を起こしていた生徒達が教師に対して反発心を抱いていたのは確かです。それは教師の姿勢に足りない面があったからに他なりません。なぜなら、良い指導をすれば子供が反発心を抱くことはないのですから。

   しかし、金八先生の訴えも虚しく、結果的に暴力行為を働いた生徒達は管理職が通報し呼んだ警察によって連行されていきます。

   なお、現実にも昭和57年(1982年)の警察による補導件数は1894人という記録が以下のように残っています。

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生徒に施すべき支援や与えるべき情報について最善を尽くす行動を学校の教師が怠った為に招いた生徒の問題行動警察の介入によって解決しようとする行為は、まさしく“教育の放棄”だと私は思います(事実、博多高校の校長は「我々の教育がまだまだだ」と述べています)。

   教育現場は1970年代と何も変わっていないのでしょうか?