【今回の記事】
「障害を持つ息子へ  〜息子よ。そのままで、いい。〜」神戸金史   ブックマン社(2016)
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【記事の概要】
   上記の本は、2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件を受けて、障害者の存在意義を世間に問いなおすために神戸氏が執筆した本です。因みに、神戸氏のご長男は自閉症スペクトラム障害(ASD)です。
   その執筆のきっかけになったのは、神戸氏が事件から3日後にFacebookに投稿した以下の文章でした。
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   障害を持つ息子へ

私は、思うのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
あなたはもっと、普通の生活を遅れていたかもしれないと。

私は考えてしまうのです。長男が、もし障害を持っていなければ。私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

何度も夢を見ました。
「お父さん、朝だよ、起きたよ」
長男が私を揺り起こしに来るのです。
「ほら、障害なんてなかったの。心配しすぎなんだよ。」
夢の中で、私は妻に話しかけます。

そして目が覚めるといつもの通りの朝なのです。言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。
なんと喋っているのか、私にはわかりません。

ああ。
またこんな夢を見てしまった。
ああ。
ごめんね。

幼い次男は、「お兄ちゃんをしゃべれないんだよ」と言います。
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。そんな朝を何度も過ごして、突然気がついたのです。

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、人をいじめる人にはならないだろう。
生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。

それから私ははたと気づいたのです。

あなたが生まれたことで、
私たち夫婦は悩み考え、
それまでとは違う人生を生きてきた。
親である私たちでさえ、
あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。

ああ、息子よ。
誰もが、現場で生きることができない。
誰かが障害を持って生きていかなければならない。

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

私の周りにだって、生まれる前に生き絶えた子がいたはずだ。
生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。

交通事故にあって、車椅子で暮らす小学生が、
雷にあって寝たきりになった中学生が、
おかしなワクチン注射を受け普通に暮らせなくなった高校生が、
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、
実は私の周りには、いたはずだ。

私は運良く生きてきただけだった。
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。

息子よ。
君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害を持って生まれてきた。

老いて寝たきりになる人はたくさんいる。
事故で唐突に人生を終わる人もいる。
人生の最後は誰も動けなくなる。
誰もが次第に障害を負いながら生きていくのだね。

息子よ。
あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。

息子よ。
そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。

あなたが生まれてきて良かった。
私はそう思っている。
                                                                   父より

   この文章が8月12日付朝日新聞に掲載されました。しかしその3日後に、ある1枚のハガキが神戸氏が務める会社に郵送されてきました。その葉書には以下のように記されていました。
8月12日付朝日新聞を読みました。障害者の家族はいつでも『いずれ誰でも障害を負う』と後々障害を持った人と生まれつきの障害者を同一としますネ。でも元気に生まれた人は、皆ある一定の期間、社会に充分貢献してから障害を負うのです。全く貢献もせず、生まれた瞬間から社会の助けを受け生き続け、社会に負担を与え続けているあなたの子供のような人とは違うのです。私はあなたのそのような開き直ったような考え方が大嫌いです。障害者の親はいつも権利ばかり主張します。なぜ『社会に貢献できない子供で、助けてもらってばかりで申し訳ない』と一言謝らないのですか?!きちんと一言謝ってから、権利や自分の子供にもたくさん価値があるなどと述べてください。権利ばかり主張しているから本当に腹が立ちます。もっと社会のお荷物であるという事を自覚してください。充分謝ってから言いたい事を述べてください。(朝日新聞読者)」

【感想】
   皆さんは、神戸氏の「障害を持つ息子へ」の文章と、それに対する読者からの投稿内容についてどのように感じられたでしょうか?

   葉書を投稿した方は、「『社会にどれだけ貢献したか』で人間の価値が決まる」という価値観を持っているようです。そして社会に貢献していないという障害者を、当の神戸氏の息子さんを「社会のお荷物」とまで評しています。
   仮に「『社会にどれだけ貢献したか』で人間の価値が決まる」と定義してみましょう。そのように考えれば、確かに障害者の方は健常児の方に比べて社会に対する貢献度が低いでしょう。しかしだからといって、望んで障害を持って生まれてきたわけではない障害者の方々が、自分が貢献できないことを社会に対して謝罪しなければならないのでしょうか?この方は、健常者として生まれ、様々な体験が自由にできる自分がどれだけ恵まれているかということに残念ながら気づいてないのだと思います。同じような“権利”を生まれながらにして奪われている障害者の方が、更に謝罪までする必要などあるはずがないと私は思います。

   障害者の方の“価値”については、生活を共にしてみないとわからないと思います。私は特別支援学級担任という立場上、神戸氏のご長男のような自閉症の子供達、更に知的障害の子供達と多くの時間を共にしてきました。そんな折、特別支援学級から3人の6年生(自閉症の子供が2人、知的障害の子供が1人)が卒業する年がありました。卒業式が行われた後「卒業を祝う会」が開催されました。その会の中で卒業生担任から話をする場面があり、私はこのような話を卒業生の子供たちに伝えました。
「皆さんは“幸せ”とはどんなもののことを言うと思いますか?物やお金に恵まれることでしょうか?先生は真の幸せ”とは自分の周りの人達と心地よい人間関係を築くことだと思っています。その意味で、ひまわり学級のA君(知的障害)の優しさ、B君(知的遅れのある自閉症)のひたむきさ、C君(知的遅れのない自閉症)の正しさは、周りの人から信頼を得るためにどれも欠かせないものばかりです。
   つまり、人間の価値とは物理的な生産性をもたらすことではなく、どれだけ周りの人心地よさを与えることが出来るかだと私は思っています。その「心地よさ」を与えるものとは、障害を持っている人の笑顔その人の中で成長する姿懸命に努力する姿等です。
   その子供たちは健常者の方に比べれば物理的な生産性は確かに低いでしょう。しかし、才能に恵まれた健常者がどれだけ物理的な生産性をもたらしたとしても、他者をぞんざいに扱い家族や同僚と適切な人間関係を築くことができなければ、そこから生まれる“孤独感”から、いつか自分自身で「真の幸せとは何だったか」という事に気づくでしょう。人間は「社会的動物(social animal
)」であり、決して1人では生きていくことは出来ないのですから。