今日で障害者施設津久井やまゆり園での殺傷事件から1年が経ちます。

   昨日NHKで、やまゆり園での殺傷事件の特集をしていました。番組では、視聴者から事件に関する感想を寄せてもらっていました。その中には、障害者を擁護したり、人間の人権の大切さを主張したりする感想が多数あった一方で、一部に「容疑者の気持ちが理解できる」「自分の中にも障害者を疎ましく思う感情がある」といった、「障害者は邪魔だ」という容疑者の考えに理解を示す感想もあったそうです。
   そこでその日の番組では、「誰にでもある『内なる植松』」と題して、敢えて私達の心の中に潜む障害者に対する感情にスポットを当てた内容を紹介していました。
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   番組では、その容疑者の考えに理解を示す感想を寄せたある2人の経験が紹介されました。
中学校時代に障害者の友人が急に大声を出したり、急に体を寄せてきたりして嫌な気持ちだった。
コンビニのレジですごく時間がかかって迷惑だった。

   この2人の方はいずれも障害者の人から受けた迷惑行為から「障害者は邪魔」という印象を持ち始めたようです。確かに人間はどんなに美辞麗句を並べても、迷惑行為を受ければ誰でも不快感を抱くものです。
   しかし、その不快感は障害者に限ったものなのでしょうか?例えば、いつも暴力をふるってくる健常者と、いつも迷惑をかけられる障害者といた場合、私達はどちらの方により不快感を感じるでしょうか?私ならば圧倒的に前者です。暴力とまでは行かなくても、いつも人を言葉で攻撃して来る同僚と毎日過ごすことから感じる不快感は時に人の精神状態を破壊する時さえあります。つまり「障害者だけが邪魔だ」という事は当たらないのです。

   しかし、何もせずに手離しで障害者が完全に他人に迷惑をかけないで社会生活を送る事は不可能です。先天的なハンデを背負っているのですから当然です。そこには、その障害者の方に対する支援の工夫が必要になります。上記の2人の体験で言えば、①の場合には特別支援学級担任による支援、②の場合にはによる支援が必要になります。
   ①の場合について言えば、担任が障害を持つ自分の生徒を通常学級と交流活動をさせたいのであれば、「人に抱きつかない」「大きな声で話さない(障害特性によるものは例外)」等のソーシャルスキルを事前に教えておく必要があります。また、交流している学級に足を運び、他の生徒との交流の様子を観察し、問題があれば直ぐに正しいスキルを教えてやる必要もあります。また、必要であれば、迷惑をかけた生徒のところに子供と一緒に行って「すみませんでした」と謝らせることも大切です。迷惑をかけられて何も言われない場合と謝罪の言葉を受けた場合とではその生徒に対する印象は大きく違ってくると思います。そのような支援をせずに、担任である自分は特別支援学級にいて、生徒が問題を起こした時に叱るという事が繰り返されれば、その生徒に対する周囲の評価はガタ落ちになり、当然「迷惑な友人」というレッテルを貼られることになってしまうでしょう。
   ②の場合について言えば、コンビニやスーパーに買い物に行く時には親が必ず付き添い、必要な支援を施す必要があります。特別支援教育の基本は「その子供にできることをさせて褒める」です。例えば、子どもに品物の入った買い物籠をレジの店員さんに「お願いします」と差し出す役をさせ、代金の支払いは親が行い、そのお釣りを受け取る時には子供に「ありがとうございます」と言って受け取らせてはどうでしょうか?これなら、他のお客さんに迷惑をかけることもなくなるでしょうし、何よりもその障害を持つ子どもから「お願いします」「ありがとうございます」と言う言葉をかけられたら店員はどんな印象を受けるでしょうか?「障害者なんかもう来ないで」と思うでしょうか?
   ちなみに、私は以前次のような記事を投稿しています。とても心を打たれる事例を紹介しています。ぜひご覧ください。

   今回の2つの事例が全てを代表しているとは思いません。しかし、先述したように、「すみませんでした」「お願いします」「ありがとうございます」等の相手を尊重した言葉を教えることが障害者と健常者との心を繋ぐ架け橋となることでしょう。私はこれらの基本的な挨拶お礼謝罪の言葉を言えることが障害者にとっても最も大切なソーシャルスキルだと思っています。
   また、少なくとも、周囲の人間の支援によって障害者の人達が一般社会の中で気持ちよく生活することが出来るようにする“優しさ”は必要だと思います。それさえ出来なくなったときには、「障害者が邪魔だ」等と言っている場合ではなくなっているでしょう。それは日本社会自体が崩壊する時です。

   長くなりました。
   次回は、先述のNHKの取材の中で聞いた植松容疑者の気になった“ある発言”について述べたいと思います。