次に、一般家庭でもよく見かけられる、あるパターンについてです。それは、愛情深く育てているつもりでも、愛着が不安定になりやすくなるパターンです。その一つは、親が過度に支配的(「あれをしなさい」「これをしなさい」等)で子どもの主体性を奪ってしまう場合で、子どもは常に「やらされている」という感覚をもって生活しています。子どもの気持ちよりも規則方針といったものに親が強く縛られそれに忠実に子育てをしようとするあまり、子どもの気持ちを無視した押しつけ無理強いをしてしまうのです。でも暴力は使っていません。さて、これは虐待にあたるでしょうか。
   前回紹介したの文科省の資料では、虐待とは家庭内の大人から子どもへの不適切な“力”の行使」「大人の“気分”や“理解しがたい理由”で罰せられることと定義されています。つまり、「罰せられること」とあり、「暴力をうける」とは記されていませんし、「不適切な“”の行使」の「」ついては、単なる物理的な暴力だけでなく、言葉の暴力や精神的な圧力も含まれると考えられます。何故なら「不適切な“暴力”の行使」と“物理的な力”に限定すると明らかに不自然な表現になる(“適切な暴力”はあり得ない)からです。
   つまり、小学校高学年頃の自分なりの考え方ができるようになる頃の子どもであれば、物理的な暴力(体罰)を使わなくとも、理解不可能だったり達成不可能だったりすることを自分の意に反して無理にやらされることや、失敗を過度(不適切)に攻められたりすることでも「虐待」に当たる場合があると考えられます。
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ですから、最近はやりの「お受験」のために、子どもがその受験に対して納得していないのに、親の世間体(子供にとっては理解不能)だけで「○○高校(自分の実力では合格できない高校)に入りなさい!」と子どもに無理強いをさせることも虐待に当たると言えるのかもしれません。

   ちなみに、アメリカのテキサス大学とミシガン大学の研究チームが、“お尻叩き”は、「子どもが両親や社会に対して反抗的になる」「攻撃性が強くなる」「精神疾患を発病する」「認知機能が低下する」等のリスクを増大させるという研究成果を発表しました。日本ですと、昔から、子供に怪我を負わせる可能性が低い等の理由で多くの家庭で行われてきたお尻叩きですが、やはり、親に対して抱いていた安全基地の意識が低下し、子どもの発達に悪影響を及ぼすようです。
 確かに、自分自身が幼い頃に親から虐待を受け、それを引きずって我が子にも暴力をふるってしまう若い親御さんもいらっしゃるでしょう。ただ、それを自分自身も同じようにやってしまうと、親に対する子どもの心歪みます。以前に東京の大田区で、ある父親が、三歳の子どもから「ガンをつけられたから」という理由でその子を何度も殴る蹴るの暴行を加え死なせてしまったという事件が起きました。子どもは叩かれたり蹴られたりすると、親を憎み、時にはその親をにらみかえしてしまうこともあるのです。
   後に紹介する「愛着7」の七つの支援は、どの接し方も、子どもの親に対する意識を肯定的に導くものであると同時に、逆に親の子どもに対する意識も肯定的に導くものです。なぜなら、親は自分の支援(「愛着7」)で子どもが嬉しそうな表情を見せれば、その子どものことがより可愛く見えるからです。「自分が微笑みかけるとこの子も嬉しそうにするんだな」とか、「厳しい言い方を止めてできるだけ穏やかに話しかけると、この子は怯えたり怖がったりすることなく伸び伸びと生活するんだな」とか、「ハグや抱っこをしてやると、子どもはこんな最高の笑顔を見せるんだな」等の気持ちに気付くはずです。
 では、本当の「しつけ」とはどんな養育のことを言うのでしょう。これも先の文科省の資料によれば、しつけとは、「何をしたら褒められ、何をしたら罰せられるのか、子どもでも理解し、予測できるものとされています。つまりそこには、子どもにも納得のいく“基準が必要だということです。そして、そのことを子どもが事前に予測できるように、その基準を守れたら褒められるし、逆に破ったら叱られるということを子どもに予告しておき、そのとおり実践すること、それが「しつけ」です。親の気分で基準を変えることなく子どもに接し続ける、この“ブレない姿勢”こそが、“真のきびしさ”(「お父さんは一度決めたことは絶対ゆずらない厳しい人だ」と子供が認識する程の一貫性)というものではないでしょうか。