文科省の研修教材資料「虐待の基礎的理解~発生のメカニズムと子どもが被る影響~」によると、虐待とは、「家庭内の大人から子どもへの不適切な“”の行使」「大人の“気分”や“理解しがたい理由”で罰せられること」と定義されています。
   まず、はっきりしていることは、「しつけ」と「体罰」とは全く違うということです。体罰は、大人の感情に任せて行われたり、取るに足らない理由叩かれたり蹴られたりすることが多いので、多くの場合「虐待」に当たります。確かに昔はそういう子育ての仕方をしていた時代がありました。私自身も担任をもって間もない頃は、保護者の方から、「先生、うちの子が悪いことをしたら遠慮なく叩いてやってください。」と言われたものです。以前、神奈川県の相模原市で、当時中学校一年生だった子どもが両親から体罰による虐待を受け、児童相談所による保護も見送られて自殺した事件がありました。その母親が、「しつけのつもりでやっていた」と話していたように、世の中には 「しつけ」のつもりで「体罰」を用いている親が、まだたくさんいるはずです。体罰ではなくれっきとした虐待なのです。
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   そういう扱いを受けた子どもは、本来ストレスを癒やす場所であるはずの「安全基地」が「危険基地」に変わってしまい、次から次へと襲ってくるストレスのために心はどんどん荒れ果てていきます。そして、精神状態が文字通り「混乱型」の愛着パターンに陥り、成長するにしたがって、やはり他人に対して暴力を振るうようになってしまう傾向が強いのです。
   そのことを顕著に物語っているのが、2015年に起きた「川崎中一殺害事件」です。カッターナイフで数十か所も切り付け当時中学校一年生の少年を死に追いやったあの事件です。主犯格の少年は、「これ以上やったら死ぬかもしれないな」と思ったそうですが、その思いにブレーキをかけることはできませんでした。普通ならば、命の危険を感じたならば、その行動を止めようとするでしょう。しかし、なぜその少年はそれができなかったのでしょうか。私は、その答えが「愛着不全」であると考えています。その少年は両親により激しい虐待を受けて育っていたことが裁判での証言から明らかになっています。彼が自分の気持ちにブレーキをかけることができなかったのは、彼自身が乳幼児期に親から予測不可能な暴力を受け、そこで本能的に身に付けた「混乱」と「怒り」のためだったのではないでしょうか。(次回へ続く)