今回は私の苦い体験談をお話しします。

   昨今、教師による体罰が度々問題視されています。その度に私は「体罰反対」の立場を訴えてきました。
   しかし、私の31年間の教職人生の中で一度だけ体罰をした事があります。
   それは、私が30歳を過ぎた頃のことです。当時私は3年生の学級を担任していましたが、その中に、その前年に遭った交通事故のために片足に障害が残り、普段から足を引きずりながら歩いていた男の子がいました。
   しかし、同じクラスの中にその歩き方真似してからかう4人の男子達がいたのです。その交通事故は不運にも学校の校門前で起こったもので、当時は学校中が大変な騒ぎだったはずです。(「だったはず」と言うのは、事故当時私は兵庫県の大学院に長期出張中だったためです。余談ですが、阪神淡路大震災が起きたのは正にその時でした。)当然、その男子達もその事故については知っていたはずでした。何しろ同じ学年の友達のことでしたから。
   しかし、それでもその男子達は“真似からかい”をしていたのです。その事実を知った私は、その4人を呼んで、改めて交通事故という不運な出来事の為に足に後遺症が残ったことを確認すると共にかなり厳しく注意をし、「これからは二度としないこと」という約束を交わしました。
   しかしその数日後、その男子達はあろうことか再度同じ行為を繰り返したのです。休み時間にその情報を聞いた私は、その後の授業の始めの時間帯にも関わらずその4人を黒板の前に立たせ渾身の力を込めて一人一人の臀(でん)部を叩きました

   それ以後は、そのからかい行為は無くなりました。しかし、今でも私の中にその時の自分の指導に対する疑問が残っています。
   まず、子ども達が二度同じ行為をするに至ったのは、一度目の指導が適切でなかった為ではなかったか?ということです。“障害を持っている友人に対するからかい”という人権問題と言ってもいい行為に対する指導ということで、私はとても厳しい指導をしました。声も荒げて怒鳴りもしました。そのくらい厳しくしなければならない事案だという思いが当時の私の中に有りました。
   しかし、このブログの中で折に触れてお話しして来ましたが、強い叱責は、子どもに“恐怖”しか与えず子どもの“”には響きません。何故なら、子ども達は、恐怖”のあまり「自分たちの行動がなぜ良くなかったのか?」ということまで考えることが出来ないからです。その男子達が再度同じ行為を繰り返したという事実が、そのことを物語っています。
   また、私たち大人は、これまでの人生経験から「“障害を持っている友人に対するからかい”という人権問題」という認識の中で、「人権問題=重大問題」と無意識のうちに翻訳していますが、子ども達にとっては「人権問題」と言われてもピンと来ません。しかも私はその意味や重要さをその子ども達に説明していなかったのです。ですから、子ども達は自分たちのした行為がどれだけ重大な意味を持っていたのか分かっていなかったはずです。私は大人にしか理解できない話を子ども達に押し付けていたのです。
   他にも、例えば万引き行為をした子どもに「万引きは“犯罪”です!」と言って叱るのも同様です。せめて「万引きした人は“警察に連れて行かれるのです」くらいの説明をする必要があります。
   
   更なる疑問は、臀部を叩いた後、からかい行為が無くなったのも、体罰という“力”でねじ伏せただけだったのではなかったか?ということです。あの子ども達の心が成長したかどうかは甚だ疑問でした。
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   あの時の苦い思いは今でも私の中に残っています。