【今回の記事】

【記事の概要】
   2020年東京五輪・パラリンピック開催費用の分担について、東京都、国、大会組織委員会が大筋合意したことを受け、丸川珠代五輪担当相は24日、「都の方から『ちょっとお待たせしました。これから一緒にやりましょう』と言っていただければいい」と記者団に語った。費用分担の決着がずれ込んだのは、小池百合子都知事の責任だと強調した。
   丸川氏は、都、国、大会組織委、競技会場がある都以外の自治体による協議会を31日に開き、費用分担を正式決定すると発表。「長い間、感情的にしこってきた部分もある。ようやくここまできたなという思いだ。感情的にならずに、しっかり乗り越えて協力していきたい」と述べ、自治体が小池氏への不満を募らせていたことを再び持ち出した。
   費用分担をめぐっては、安倍晋三首相が9日、丸川氏に「都を待つことなく直ちに調整を」と指示していた

【感想】
   安倍晋三首相が丸川氏に「都を待つことなく直ちに調整を」と指示していた程、ずれ込んでいた運営費の協議。この責任は都知事の小池氏の責任であるとして、知事の責任のために周囲を待たせ迷惑をかけたのだから、「ちょっとお待たせしました。これから一緒にやりましょう」と言うべきであるとする丸川氏の指摘。しかし、自分の非を認めたくない小池氏の口からはその言葉が出ない。
{EA86B3B3-9D67-40D8-8CE0-CAF2AA165244}
   
   なぜ、私がこの記事を題材に選んだかと言うと、この話題は、東京五輪・パラリンピック開催費用の分担に関わる準備作業という実に大規模な事業でありながら、実は人間の個人的な感情が要因となった、政治家云々以前の極めて基本的な人間関係のこじれに関わる話であり、この種のこじれは、小学校現場でよく見られ、私が子供達に度々指導してきた話題だからです。大人である政治家と小学生とを同レベルで扱うことになってしまい大変恐縮ですが、子供達のソーシャルスキル育成のために目をつぶって頂ければ幸いです。

   さて、子供というものは、一般的に自分の非を認めたがらない、と同時に非の認め方を知らない場合が多いです。
   例えば学校ではこんな事が頻繁に起こります。
   提出締め切りが明日に迫ったある申込みがありました。そんな時ある子供が私のところに来てこう言いました。
申込書を無くしたのでもう一枚ください。」
何も悪びれる様子もないその子に私はこう聞きました。
「その申込書はお家の方が無くしたのですか?」
すると、
「いいえ、ぼくが無くしました。」
それにしては、その態度と発言が一致していません。そこで、もう一度聞きます。
「あなたが無くしたので、もう一枚もらいに来たのですね。ではもう一度言ってごらん。」
すると、その子どもは相変わらず
申込書を無くしたのでもう一枚ください。
と言います。そこで私は初めてその子供に教えます。
あなたは自分で無くしたためにもう一枚先生にもらいに来ました。自分の失敗のせいでお願い事に来たのですから、そういう時は最初に『すみませんが』と言ってから続けるものですよ。もう一度言ってごらん。」
その子どもはそこで初めて、言いました。
すみませんが申込書を無くしたのでもう一枚ください
「そうです。自分の責任でお願いする時は、そう言うものですよ。」

   改めて、
すみませんが、……してしまったので……してください。」
家庭の中にも同じような場面はないでしょうか?(家庭内であれば言い方は若干変わると思いますが。)
   子供というものは手をかけてやって初めて成長するものであり、何も手をかけなければ、そのまま社会の荒波の中に飛び込んで行くことになるのです。そして、「君は本当に反省しているのか?!」と叱られてショックを受けることになるでしょう。


   小池都知事が、自分の責任でずれ込ませた運営費の協議。「大変お待たせして申し訳ありませんでしたが、これからよろしくお願い申し上げます。」と言っていれば、丸川氏が小池氏に対して不満を抱くこともなかったのではないでしょうか?