【今回の記事】

【記事の概要】
いわゆる仲間意識の中でお互いにちょっかいを出すようなことがあったと聞いている」。仙台市役所の会議室であった29日の市教委の記者会見。大越裕光教育長は当初、そう語り、いじめはなかったとの認識をにじませた。
   男子生徒は昨年6月と11月にあった校内のいじめに関するアンケートで「悪口」「冷やかし」を訴えていた。だが、市教委幹部は「一方的ではなく、互いに言い合っていたので、双方に指導をした」と説明した。
   会見場の空気が一変したのは、「第三者がいじめとみられる現場を目撃したのか」との質問後。市教委幹部は「確認させてください」と答え、別の質問が続く間、市教委事務局職員数人が手元の資料を慌ただしくめくり続けた。約5分後、市教委幹部は顔をこわ張らせ、職員が差し出した資料を見ながら「亡くなった生徒を複数の生徒が(集団で)からかっている場面を見た」という他の生徒の記述を読み上げた
   これに対し、報道陣は「どういう経緯で1対複数の関係を排除したのか」と追及。沈黙が続いた後、「この情報を私たちは把握していなかった。先ほど再度確認する中で出てきた」としどろもどろに答えた幹部は「確認します」と繰り返すばかりで、今春赴任したばかりの校長下を向いたままだった
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【感想】
   なんと会見中に重大な目撃情報が見つかるという前代未聞の記者会見。この記者会見で市教委幹部は、
「『この情報を私たちは把握していなかった。先ほど再度確認する中で出てきた』しどろもどろに答えた
との事である。「しどろもどろ」だったのは、自分たちがこの場に臨むまで、重大な目撃情報を確認していなかった事への後ろめたさを痛感したからであろう。しかし、そうであれば、その時の発言は、
この情報を私たちは把握出来ていなかった恥ずかしながら、先ほど再度確認するまで気付くことが出来なかった。」
とするべきであった。いかにも、他人事のように、「把握していなかった」「再度確認する中で出てきた」と答えてしまうところに、非を認めたくないという気持ちがにじみ出ている。逆に教育委員会や学校の隠蔽体質を暴露する事になってしまった。しかし、もともと「(自殺した)男子生徒は転校した」と生徒達に虚偽の説明をしていた学校である。驚くには値しないのかもしれない。

   なぜ、その目撃情報が書かれた調査用紙を記者会見当日まで発見する事が出来なかったのか?おそらく、校内で実際に調査用紙の確認作業に当たったのは生徒指導主事であり、その生徒指導主事が見逃した報告結果を校長に上げ、校長はそれを鵜呑みにしたのだろう。しかしそれは通常の決済の場合であり、生徒が自殺したという状況下では、校長と副校長自らも管理職の複数の目で調査用紙の確認作業を行うべきだった。そしてそれは、教育委員会も同様であった。
   校長は生徒指導主事任せ、教育委員会は学校任せ、という「他人任せ体質」がこの記者会見を余りにもお粗末なものにしてしまったのだ。しかも、その有るまじき体質が1人の生徒の命が失われている状況下で働いていたのである。いかに教育委員会や学校側が1人の生徒の命を軽く見ているかが透けて見える。

   非難ばかりしていても問題の解決には至らない。では、どうしていたら、アンケートでいじめを訴えていた生徒を自殺から救うことができたのか?ここが最も重要である。
   まずは、年2回実施しているいじめ調査アンケートでいじめを訴えた生徒を個別に呼んで事情を聞く事である。この段階で加害生徒達と一緒に事実確認をしてしまうと、被害生徒は加害生徒からの心理的なプレッシャーからいじめ被害を隠す恐れがある。
   次に、加害生徒達も個別に呼んで事実確認をする事である。そして「5W1H」の各項目に沿って漏れ無く確かめる事である。すると、複数の加害生徒の中で何処かに事実にズレが生じる事がある。そこから、いじめ加害を否認する主張を崩していく。
   更に、加害生徒達の主張を真に受けない事である。事を大事にしたくない教師は往々にしてこの落とし穴にはまる場合がある。今回の記事の冒頭で紹介されている「いわゆる仲間意識の中でお互いにちょっかいを出すようなことがあったと聞いている」という情報は、おそらく加害生徒側からの情報である可能性が高い。
   そして何より大切なのは、被害を受けて苦しんでいる生徒の身になって事実確認をする事である。自分に事実確認をしている教師が自分の事を心から心配してくれているかどうかは、話を聞かれている生徒には直ぐに分かる。教師から親身になってもらった生徒は心の拠り所ができ、「自分は1人ではない」という勇気が湧いてくるだろう。逆に親身に話を聞いてもらえなかった生徒は「先生からも見放された」という絶望感を味わい自殺に走る危険性が高くなる。

   最後に運命を分けるのは、生徒との間に「愛着(愛の絆)」を作ろうと努力する教師の姿勢の有無なのである。